十月の安川市では、暑さが和らいでいた。
島田香織(しまだ かおり)は、全身びしょ濡れのまま庭に立ち、寒さに小刻みに震えていた。
行き交う使用人たちは彼女に目を向けようともせず、医者を恭しく屋内へと案内した。
誰一人として、彼女がプールに落ちたことも、その後どうなるのかも気に留めなかった。
藤原航(ふじわら わたる)との結婚生活も三年が過ぎ、香織にはもう分かっていた。藤原家で自分には何の地位もなく、家の犬よりも大切にされていないこと。そして、航が日々思い続けているのは、決して自分ではなく、義姉の林杏(はやし あん)であるということも。
杏と一緒に屋外プールに落ちたとき、そこは一番深いところでもせいぜい一・五メートルほどだった。それでも夫の航は真っ先に水に飛び込み、杏を抱きかかえて部屋へと運び、さらに医者を呼ばせた。
藤原家の者たちは皆、杏のまわりに集まり、誰一人として香織に気を配る者はいなかった。まるで、そこにいないものとして扱われているかのように。
香織は濡れたハイヒールを脱ぎ捨て、裸足のまま自室へと戻った。シャワーを浴びて着替えを済ませると、ベッドに潜り込み、そのままうとうとと眠りに落ちた。
「起きろ!」
冷たい声が横から聞こえ、掛けていた布団が剥ぎ取られたような気がした。香織はぼんやりと目を開け、訪れたのが航だと気づいた瞬間、目の縁が熱くなり、赤く染まった。
「航、杏は大丈夫?」香織は起き上がりながら問い、こめかみを軽く押さえた。「私が押したわけじゃないの」彼の不機嫌な様子を見て、かすれた声で続けた。
「起きろ。祠堂に行くぞ」航は香織をじっと見つめ、その瞳には氷のような冷気が宿り、冷笑を浮かべた。
香織は急に目を覚まし、信じられない表情で航を見つめた。体の不調を必死に抑えながら、「どういう意味?」と尋ねた。
「謝罪だ!」航は香織に一瞥も与えず、まるで物でも引きずるかのように、彼女を外へと引きずり出した。
航は心中で激しい苦痛を感じていた。香織とは一言も交わす気が起きなかった。杏はもともと体が弱く、今回の落水後すぐに医者を呼んだものの、お腹の子供は助からなかった。
それは兄の唯一の血筋だった。香織のせいで、今や子供も、すべてが失われてしまったのだ。
香織は航の言葉を聞いた瞬間、まるで真冬に冷水を頭から足まで浴びせられたかのように、全身が凍りつくような感覚に包まれた。
藤原家祠堂、それは人を呑みこみ、消し去る場所だった。
前回、藤原家祠堂に入った者は、二度とその姿を見せることはなかった。
「航、本当に私がやったんじゃないの、話を聞いて…」香織は必死に抵抗し、航の手から逃れようとしたが、かえってその手に強く掴まれ、痛みで顔が青ざめた。
「何があったのか、藤原家の族人に話せ」
航の冷たい声が前方から響いてきた。
香織は航の後ろをよろめきながらついて行き、その整った横顔をじっと見つめた。なんて美しい顔だろう。あの頃、彼女は周囲の反対を押し切ってまで、彼との結婚を望んだのだ。
しかし、彼と結婚してからというもの、彼は一度も優しい表情を見せることはなかった。
彼女は三年という時間があれば、どんなに冷たい心も温かくなるはずだと思っていた。しかし、それは間違いだった。彼の目には常に杏しか映っておらず、優しさもすべて杏に向けられていた。まるで彼の心が、杏に全てを捧げているかのように感じられた。
「離して!」香織の顔に冷ややかな笑みが浮かび、冷淡な声で言った。「自分で歩けます」
航は香織を一瞥し、その黒い瞳に嫌悪の色が浮かんでいた。唇を固く結び、内心の怒りを必死に抑えながら、祠堂の方向へ足を進めた。
香織は航の背中を見つめ、この三年間の自分が本当に笑い者だったと痛感した。
彼女は裸足のまま、膝丈のネグリジェ姿で、前方の明るく照らされた祠堂へと一歩一歩、力なく進んでいった。
彼は、彼女に靴を履く時間すら与えず、そのまま強引に進ませた。
彼女は鮮明に覚えていた。二日前、航は杏がサンダルを履いて外出しようとした時、杏の前にしゃがみ込み、丁寧に靴下と革靴を履かせ、体を気遣って暖かくするように注意していた。
香織は軽蔑的に笑った。自分が藤原家に留まっていることが、今となっては本当に笑い話に過ぎないと感じた。
祠堂の中では、藤原家の全員が静かに彼女を待っていた。香織はその視線を感じながら、心の中で息を呑んだ。
「跪け!」
航の剣のように鋭い眉の下で、瞳は無情で冷徹に輝き、まるでナイフのように香織の心臓を貫いた。香織はその視線に息が詰まる思いをした。
香織は高熱で顔を赤くしていた。藤原家の全員を見渡すと、誰もがまるで悪魔を見るような冷たい目で彼女を見つめていた。
彼女には何の過ちもない。それでも、なぜ跪かなければならないのか。
「跪きません」香織はその場に立ったまま、力強く、そしてはっきりと言った。彼女の声には揺るぎない決意が込められていた。
「跪け!」香織が過ちを認めようとしない様子を見て、藤原おじいさんは怒りに震えながら手に持っていた茶碗を彼女の足元に投げつけ、怒鳴った。
割れた陶器の破片が香織の足を深く切り裂き、彼女は痛みに息を呑み、無意識に足を引いた。
「香織、跪いて謝れ!」藤原おじいさんは香織が全く怯える様子を見せないのを見て、ますます厳しい声で叱責した。その声には、もはや怒りの色が濃く含まれていた。
「私は義姉を押していません。私には過ちがありません。だから跪いて謝罪することもありません」香織は痛みを堪えながら背筋をぴんと伸ばし、恐れることなく藤原おじいさんの冷徹な視線にしっかりと応えた。
「まったく改心の色もなく、頑なに認めようとしないとは。誰か、この者を打って跪かせろ!」藤原おじいさんは怒りで髭を震わせながら、香織を指差し、その目には冷徹な決意が宿っていた。
「そうよ、香織は度が過ぎてる。杏の子供を害しておいて、まだ謝罪もしないなんて!」
「その通り。香織をきちんと懲らしめないと、もっとひどい事をしでかすかもしれないわ」
「可哀想な長男、跡継ぎの子供もできないなんて!」
……
藤原家の一族はまるで腫瘍でも見るかのように香織を見つめ、目には千の刃を突き刺すような鋭さが宿っていた。彼女に向けられた視線は、まるで彼女を心の底から消し去りたいかのように冷徹で、痛みが突き刺さるようだった。
香織は静かにその場に立ち、藤原家の人々を見渡した。普段から彼女に優しかった姑の鈴村秀美(すずむら ひでみ)が心配そうにしている以外、他の人々は皆、まるで千の刃で切り刻むかのような冷徹な視線で彼女を睨みつけていた。
「お父様、香織はまだ若いですし、もう過ちを認識しているようです。ですから…」秀美は香織の足から血が流れ出ているのを見て、思わず眉をひそめ、藤原おじいさんを見上げながら心配そうに言った。
藤原おじいさんが鋭い目つきを向けると、秀美はその視線に圧倒され、すぐに口を閉ざし、それ以上何も言えなくなった。
「航、香織は怪我をしているわ。彼女はあなたの妻なのだから、休ませてあげるべきでは…」秀美は香織の足が血まみれになっているのを見て、思わず前に進み出て、小声で言った。
「俺にはそんな邪悪な心を持った妻はいない!」航の漆黒の瞳はさらに冷たさを増し、冷徹に言った。
香織は信じられない様子で航を見つめ、目を見開いて言葉を失った。
「香織、自業自得だ」航は横目で香織を見て、その瞳には恨みと冷徹さが混じっていた。冷たい表情で言い放った。
航は兄の子供が血の塊となって失われたことを思い出し、目に宿る憎しみの色はますます鮮明になった。彼は秀美を引き寄せ、脇に立たせた。香織に近づくだけで、全身が不快に震えた。
藤原昭子(ふじわら あきこ)は常々香織と反りが合わなかった。彼女は香織の前に進み出ると、冷徹な目つきでハイヒールで香織の膝の裏を蹴り、無理矢理跪かせようとした。
香織は背筋をぴんと伸ばしたまま立ち続け、横目で昭子を鋭く睨みつけた。
「跪きなさい!」昭子は香織を見下ろし、唇の端に冷笑を浮かべながら命じた。「おじいさまが跪けと仰っているのよ」その声には明らかな支配欲が滲んでいた。
昭子は何度も香織の膝の裏を蹴り続け、それでも屈しない彼女に対し、冷徹な表情で前に出て平手打ちを食らわせた。その後、さらに強く膝の裏を蹴り、香織の耐える姿を愉しむかのようだった。