懐中時計

手術トレイが宙に浮き、ヨードチンキを染み込ませた綿球が琥珀色の液を滴らせている。九古明が病院廊下に足を踏み入れた瞬間、あらゆる音が真空に吸い込まれた。看護師のワゴンで揺れる生理食塩水が水晶のペンダントのように凝固し、17体の尾杖級アラハバキが襲いかかる姿勢で静止している。螺旋状の口器が最も近い患者の喉元まであと10センチの位置で凍り付いた。

「アフタヌーンティーは掃除時間じゃないんだがね」胸元の金唐草模様の懐中時計を外し、秒針が逆回転で三目盛り動いた。

時空が皺くちゃの紙のように収縮する。アラハバキたちが胚胎形態まで逆行し始め、粘液と骨棘が灰白色の肉塊となって床に転がる。清掃員がモップをかける時、どこかの悪戯っ子が餅菓子を撒き散らした程度にしか思わない。

「紫外線消毒を忘れるな」虚空に指示を飛ばし、白衣の裾が肉塊の山を撫でる。懐中時計の鎖が風鈴のような音を奏でる。

協会地下7層の円形医療室で、霧島響が神経接続器の調整をしていた。液体窒素タンクの表面に映るのは風船ガムを噛む少年――蛇形のイヤリングが咀嚼リズムに合わせて光り、モールス信号のようだ。

「今回の回収品は生きた囮?」少年がタンク内に浮かぶ黒髪の少年を突っつく。「首席が時の砂を使うなんて...」

「三年前の雷門商店街赤雨事件」響がホログラムを呼び出し、燃える提灯の残骸がデータの海で再構築される。「ガス爆発とされた現場から、この紋章と同源の神骸波動を検知」

警報が空気を切り裂く。時空に波紋が広がり、九古明が蛍光緑の粘液を垂らす懐中時計鎖をぶら下げて入室する。袖口には焚香の残り香が付着している。「幼虫級42体、尾杖級11体――」半分痙攣する触手を分析装置に放り込む。「全てが標的型フェロモンを分泌していた。腐肉に群がるハイエナの如く」

少年が膨らませた風船ガムが鼻に貼り付く:「こいつは歩く怪物誘引装置?」

「正確には起動中の警報装置だ」首席がタンクを軽く叩き、金色の修復液に波紋が立つ。「心停止後細胞活性が280%上昇。この逆代謝反応は...」突然観察窓に顔を近づける。「20年前の『鳳凰』暴走例と完全一致」

響の拳が制御盤を叩き、青銅鈴が鋭く鳴る:「記憶消去プログラムを実行するんですか?」

「昔時の砂で実験用マウスを蘇生させた時は、夏休みずっと焼却炉掃除だった」九古明が懐中時計を回すと、医療室に星屑のような時の塵が舞う。「だが今回は興味深い――」顔色が青ざめる。「死の逆転には等価交換が要る。君は何を払う?」

「三年分」響が襟元を引き裂き、鎖骨の蝕痕が溶岩のように流れる。「私の時間で」

少年が柑橘系の香りを撒きながら手を挙げる:「俺の功労ポイントも...」

「未成年の時間取引は禁止」首席が指弾きで少年を静止させ、時の塵が刃蓮の胸元へ渦巻く。「だがその心意気は評価しよう」

液体窒素タンクが高頻度で震動する。九古明の指先に氷の裂け目のような細かい亀裂が走る。響の青銅鈴が無風で鳴り響き、甲高い共鳴音の中で少年の腹部貫通傷が蓮華状の光斑を放つ。

「同期率85%」首席がエネルギー流を遮断し、時の塵が掌で砂時計に凝縮。「本当に目覚めるかは、この贈り物を受ける資格次第だ」錆びた銅製懐中時計を響に投げる。「明日雷門廃墟へ連れていけ――消された真実は焼けた狛犬像に眠る」

警告灯が突然暗赤色に変わる。タンク内の少年の睫毛が震え、右手の紋章から溶けた金のような光液が滴り、神経接続器の配線を灰に変える。モニターの神骸共鳴率が暴走し、臨界値を突破しようとする瞬間――

九古明が緊急停止ボタンを叩く。袖から覗く手首の血管に時計目盛の淡青色紋様が浮かぶ:「どうやらお客様の到着が十分早かったようだ」