第009章 よくも俺の電話を切ったな?!

優奈は自分のデスクに座り、頭の中は老人ホームの費用のことでいっぱいで、仕事にまったく手がつかなかった。

そのとき、携帯が突然鳴った。けれど彼女はぼんやりしたまま反応できなかった。

隣の同僚が親切に声をかけてくれ、ようやく我に返った優奈は、携帯の画面を確認する。表示された名前を見た瞬間、注意力が一気に集中した。

彼女はそのまま電話を持って、会社の外の廊下へ向かい、深く息を吸ってから応答した「もしもし、綾瀬おじさん…」

電話口からは、穏やかで落ち着いた声が返ってきた。どこか笑みを含んだ、年長者特有の優しい響きだった。「もう光秀と結婚したのに、まだおじさんなのかい?」

優奈は唇を噛み、少し慣れない様子で口を開いた。「お父さん——」

綾瀬陽向は返事をして、尋ねた。「うん。今、どこにいる?」

「会社です。出勤してます」彼女は当然のように答えた。

「今日から仕事か?今日は何の日か、わかってる?」

優奈は意味が分からず、尋ねた。「えっ? 何かありました?」

「今日は、お前と光秀が結婚してちょうど三日目だろう。昔からの習慣で言えば、『里帰り』する日だ」

優奈は呆然とした。彼女はこのことをすっかり忘れていた。

それに…お父さんは刑務所にいて、養母は行方不明、おばあちゃんは老人ホームにいる。里帰りするなら、彼女は…どこに行けばいいの?!

陽向は彼女が長い間黙っているのを聞いて、自ら切り出した。「優奈、お父さんに会うのは今ちょっと難しいから――光秀に連れて行ってもらって、おばあちゃんに会いに行くといい」

「い、いえ! 一人で大丈夫です!」あまりに素早い否定に、どこか慌てた気配がにじんでいた。

陽向は少し声の調子を落として、諭すように言った。「里帰りに一人で行くなんて聞いたことがないよ。この件はもう私に任せなさい。ちゃんと手配しておくから」

その一言を残し、電話はぷつりと切られた。

優奈は内心で小さくため息をついた。綾瀬おじさんと光秀って、なんだかんだで似ている気がする。何をするにも彼女の気持ちを考えない。

ただ違うのは、綾瀬おじさんがそうするのは彼女のためだということだ。

でも……綾瀬光秀と一緒におばあちゃんに会いに行くなんて、現実的にも無理だし、何より、そんなの絶対に嫌だった。

廊下に少し立って、気持ちを整えてから、オフィスに戻った。

席に着いたばかりのタイミングで、また携帯が鳴る。

画面を見ると、見覚えのない番号だった。

勤務中に電話ばかり出るのも印象が悪いし、すぐに切ってしまった。

それから彼女はようやくパソコンに向き直る。気持ちを切り替えるようにして、仕事に意識を向け始めた。

顧客リストを開き、ちょうど整理しながら連絡を取ろうとしたところだった。そのとき、マネージャーの方から声がかかる。「優奈——」

彼女は困惑した顔で見上げた。「どうしましたか、マネージャー?」

「綾瀬社長があなたを探してる、上の階に行ってきて」

そのひと言が出た瞬間、部署中の視線が一斉に優奈へと注がれる。そして案の定、あちこちでひそひそ話が始まった。

「マネージャー以外で社長に呼ばれた人なんて、聞いたことないよね?」

「えっ、もしかして優奈ちゃん…口説かれてるとか!?」

「あり得るかもよ。さっきも結構長い間、社長と話してたらしいし」

……

飛び交う憶測に、優奈の頭はさらに混乱していく。

光秀は会社で彼女と話すなと言ったんじゃなかったの?なのになぜ自分を呼ぶの?!

「早く!」マネージャーは彼女が動かないのを見て、もう一度急かした。

優奈は返事をして、周囲の視線とざわめきを背中に浴びながら、エレベーターへと向かう。上階に着くとドアの前でノックし、許可を得てから綾瀬光秀のオフィスに入った。

彼女が顔を上げて光秀を見た瞬間、彼の墨のように濃い瞳に怯んだ。

明らかに不機嫌だった。

表情は一見無表情。だが、口を開いたときの声は、氷のように冷たかった。

「高橋優奈、よくも俺の電話を切ったな?!」