第010章 私はあなたと結婚したいなんて、少しも思っていませんでした

優奈はその言葉を聞いて一瞬呆然としたが、すぐに自分がさっき確かに電話を切ったことを思い出した。

彼女は慌てて説明した。「あなたからだとは知りませんでした」

「だから何だ？」光秀は彼女の説明で怒りが収まるどころではなかった。

優奈は咄嗟に声を落とした。「綾瀬社長、申し訳ありません。誰もあなたの携帯番号を教えてくれませんでしたし、勤務中に勝手に電話に出るのはよくないと思ったので切ったんです」

その言葉が終わるか終わらないうちに「ガンッ」という、何かが床にぶつかる鋭い音が室内に響いた。

優奈がこっそり見ると、男が手にしていたペンを乱暴に投げ捨てていた。

ああ...また怒っているのか？

優奈は黙っていた。この男性が怒っているとき、彼女がいつも取る対策は沈黙だった。

なぜなら彼女はよく知っていた。何を言っても、どんな言葉を選んでも、彼は余計に苛立つだけだということを。

しかし、優奈の視界の端で、光秀が椅子から立ち上がり、一歩一歩、彼女に向かって歩み寄ってくるのが見えた。

彼が何をするつもりなのか分からなかったが、優奈はじっとその場に立ち尽くし、身動き一つしなかった。

男は彼女の目前、ほんの五センチの距離で立ち止まった。二人の距離は、息がかかるほど近かった。

「聞いたぞ。お前の養父は、妻の浮気を知って揉めた末、人を殺して服役中。養母の方も男を作って、近所に顔向けできずに失踪したらしいな」

光秀の言葉には、明らかな軽蔑がにじんでおり、その目には深い嫌悪の色が浮かんでいた。

唇の端からは、嘲りを含んだ冷笑が漏れていた。

優奈は唇を噛みしめ、目の前の男が自身の傷を一つずつ抉るように語るのを、じっと耐えながら聞いていた。

光秀はゆっくりと手を上げ、指先を彼女の額に当てると、そのまま頬をなぞるように滑らせ、顎に届いたところでその輪郭をきつく掴み、悪趣味な笑みを浮かべて言った。「ほんと、不思議でたまらないよ。そんな家庭で育った女が、どうやって父さんに気に入られて、綾瀬家の嫁になれたんだ？」

優奈は鋭い視線で男を見据え、その瞳には彼の残酷さを訴えるような光が宿っていた。

彼女は手を伸ばし、その大きな手を振り払おうとする。

すると光秀はさらに力を込め、目を細めて危うい弧を描いた。「教えろ。そうしたら、お前の実家に一緒に帰って、老人ホームにいるおばあさんに会わせてやる」

この言葉を聞いて、優奈の目の中の感情はようやく薄れた。

彼女はまばたきをして、冷淡な笑みを浮かべた。「綾瀬社長、まずは手を放してください。そうしたら話します」

光秀は彼女を睨みつけた後、明らかに不快そうに手を引っ込めた。

優奈は手を上げて痛めつけられた顎をさすりながら、そっけなく言った。「正直に言いますと、私はあなたと結婚したいなんて、少しも思っていませんでした」

光秀はその言葉を聞いて、目に驚きの色を浮かべた。

横浜中で、綾瀬家の嫁という立場に心を動かされない女がいるだろうか？綾瀬光秀という男に、密かに想いを寄せない女がいるだろうか？

それなのに、彼女は彼と結婚したくないなどと言い放ったのだ！

嘘に決まっている。

優奈は彼から視線を外し、淡々と語り始めた。「綾瀬おじさんと初めて会ったとき、彼は心臓の発作を起こしていました。私の父も心臓が悪かったので、応急処置くらいは知っていて、そのとき助けたんです。その後、綾瀬おじさんが感謝の印にと名刺をくださって、何かあれば遠慮なく連絡しなさい、何でも力になると――そう言ってくれました」

こで一息置き、優奈の声は少しだけかすれた。「それから間もなく、我が家に問題が起きて、父の裁判を手伝ってくれる弁護士が必要になりました。本当は頼るつもりなんてなかったけど、どうにもならなくなって連絡したんです。そしたら…まさか、あなたとの結婚を条件にされるなんて、思ってもいませんでした」

光秀は鼻で笑い、優奈はその口調の中に、あからさまな軽蔑を感じ取った。

「つまりお前は、落ちぶれた家の養女から、いきなり『綾瀬家の奥様』に成り上がったってわけか？」