"希望と絶望"

薄暗い病室には、消毒液と新しいリネンの匂いが漂っていた。その無機質な空気の中、ベッドにはひとりのか弱い女性が横たわっていた。呼吸は浅く、身体はすっかり衰えていたが、腕の中に抱いた新生児を見つめるその目は、どこまでも優しく温かかった。

手はかすかに震えていたが、彼女はその小さな命をしっかりと抱きしめ、疲れ切った唇に、穏やかな微笑みを浮かべた。

「……巧。」

彼女は、息を吐くようにささやいた。声というより、祈りのようなものだった。

「朝広 巧(あさひろ たくみ)。あなたは、自分だけの道を切り開いて……いつか、この世界に希望を灯す存在になるのよ。」

彼女の傍らに、父親の姿はなかった。手を握ってくれる夫も、祝福の言葉をかけてくれる人もいない。ただ、巧がこの世に生まれる前に、彼は「朝広」の姓だけを残して去っていった。

――そして、時は流れた。

あたかも、この世界があの願いを叶えるつもりなどなかったかのように。

ビーッ、ビーッ、ビーッ——。

目覚ましの音が静寂を切り裂くように鳴り響いた。朝広 巧(あさひろ たくみ)は顔をしかめ、目をゆっくりと開けた。手を伸ばしてアラームを止めると、深いため息をついた。

「……なんで、まだ生きてるんだ。」

重い身体を引きずるようにして狭いキッチンへ向かい、賞味期限の切れたパンを取り出す。そこに安物のマーガリンを薄く塗り広げる。それは食事と呼べる代物ではなかった。乾いていて、味気もなく、ただ空腹を誤魔化すためだけのものだった。

アパートを出て一日を始める。スマホをちらっと見るが、メッセージも不在着信もない。あるのは、既に応募した求人情報の通知ばかり。

太陽はまだ本気を出しておらず、代わりにコンビニの蛍光灯がチカチカと頼りなく光っていた。

「朝広、棚の補充をもっと早くやれ。それから床も拭け。」

店主の老人がスマホをいじりながら、無愛想に命じてくる。その横で、巧は黙々と働いた。

「はい……分かりました。」

正午になる頃には、巧は既に汗だくだった。今度はラーメン屋のアルバイト。昼のピークは地獄のようで、客たちは彼の存在すら気に留めず、ただ注文を飛ばしてくる。

「おい、朝広! 3番テーブルも拭いとけ!」

店長の怒鳴り声が背後から飛ぶ。巧は無言で頷き、布巾を手に取った。

夜の街はまるで別の顔をしていた。濡れた路面にネオンの光が映り込み、笑い声が響き渡る。彼と同じくらいの年齢の若者たちが楽しそうに通り過ぎていく。外のテーブルでは友人同士がグラスを鳴らし、話し声が街のざわめきに溶けていく。

その中で——巧は一人、街角に立っていた。両手で掲げていたのは、パスタ屋の立て看板。

「本日限定!スペシャルパスタセット!」

明るい街灯の下、その文字はしっかりと光っていた。けれど、誰も看板のことなど見ていなかった。誰も彼のことなど気にも留めていなかった。

——彼はただ、街という巨大な機械の一部。誰にも気づかれない、透明な歯車だった。

若いカップルが手を繋いで通り過ぎていく。笑い声が街のざわめきに溶け込み、まるで別世界の音のように響いていた。

巧の唇にわずかな笑みが浮かぶ。だが、その目——疲れきって、虚ろな瞳には、隠しきれない深い哀しみが宿っていた。ネオンの光がショーウィンドウに映る彼の姿を彩るが、その輝きでは心の空虚を隠すことはできなかった。

目の前を歩く幸せそうなカップルをじっと見つめながら、巧は看板を握り締めた。

「……その笑顔……」

視界が滲む——気づけば、彼は最後の登校日の教室にいた。

クラス中は将来の話で賑やかだった。

「ねぇ、たくみちゃんって、いつも真面目すぎじゃない?」明るく笑いながら、彼の机に腕を乗せてくる少女がいた。「ちゃんと楽しむこと、できてる?」

それは、彼が密かに想いを寄せていた女の子——**花沢 結希(はなざわ ゆき)**だった。

「はい、これ。」

そう言って、彼女はスマホを取り出し、インスタを開いて見せた。

「卒業しても連絡取れるように、フォローして? インスタやってるでしょ?」

不意の提案に、巧は驚いた表情を見せる。言葉を返す前に、彼女がニコッと笑って言った。

「ふふ、どうせやってないんでしょ、インスタ?」

その言葉に、巧の口元がわずかにほころぶ。無言でスマホを取り出し、彼女のアカウントを検索してフォローする。

「youkey0325……これ、君のアカウントだよね。フォローしたよ。」

思ったよりも小さな声だった。

彼女は少し身を乗り出して、彼のスマホを覗き込むようにして笑った。

「わっ、本当に使ってるんだ!えらいえらい。じゃあ、たまには話しかけてよ?忘れられたら悲しいから。」

その瞬間——

キーンコーンカーンコーン——

チャイムが鳴り響く。彼女はくるりと回って教室のドアに向かって走り出した。

「じゃあね、たくみちゃん!」

その背中を見送りながら、巧は静かに呟いた。

「……結希ちゃん、また会いたいな。」

――

「すみません! ちょっと!」

鋭い声が現実に引き戻す。巧ははっとして、看板を握る手に力が入る。

目の前にはカップルが立っていた。指を絡めながら、こちらをじっと見ている。

「このプロモーションって、テイクアウトだけ? それとも店内でも使えるの?」男が看板の赤い文字を指差しながら聞いてきた。

ため息を飲み込みながら、巧は淡々と答える。

「……両方です。」

「やったー!」彼女が嬉しそうに笑って彼氏の腕を引っ張る。

「ねぇ、一緒に入ろ?」

男は軽く頷き、巧にそっけない「ありがとう」を一言だけ残して、二人で店内に入っていった。

また一組の幸せなカップル。また、自分とは無縁の世界の住人たち。

――

深夜、日付が変わる頃。

ようやく巧は、くたびれた身体を引きずるようにして、自分の小さなアパートへと戻った。

ギシギシと音を立てる古びた椅子に身を沈め、カップラーメンの蓋を剥がして、熱湯を注ぐ。立ち上る湯気が冷えきった空気にゆらゆらと揺れた。

誰もいない部屋の静けさが、胸に重くのしかかる。

食べながら、彼は擦り切れたノートをめくった。疲れた目がページをなぞるが、文字はにじみ、まともに頭に入ってこない。

「……入試まで、あと3ヶ月か。」

ぽつりと呟き、ため息を吐く。

気づけば、心は遠くを漂っていた。現実から逃げるように、無意識のうちにスマホを手に取る。指が勝手にInstagramを開いた。

──通知:@youkey0325 が新しい写真を投稿しました。

画面に映ったのは、**花沢 結希(はなざわ ゆき)**の笑顔だった。青い海を見渡すバルコニー。高級リゾート。背景には揺れるヤシの木。

そして、彼女の隣には——彼氏がいた。背が高く、清潔感のある服装で、自然体のまま完璧に見える男。その腕が彼女の腰にまわされている。まるで、彼女はそこに属しているかのように。

《Happiest with you💖》

その瞬間、巧の胸が締めつけられた。親指は画面に止まったまま、視界がぼやけていく。

気づかぬうちに——

ぽたり。

一滴の涙が、スマホの画面に落ちた。続けて、もう一滴。

声は出なかった。嗚咽も、震えもなかった。

ただ、言葉にならない想いが、静かに、重く、彼を押し潰していく。彼が手に入れられなかったもの。そして、これからも決して手に入らないもの。

それが、すべてを黙って壊していった。

──

かすかに灯っていた希望の火は、その瞬間、完全に潰えた。

巧は目を覚まし、天井を見つめていた。動かないまま、ただじっと。枕元のアラームが鳴り続けていたが、起き上がる気力はなかった。

数分が過ぎ、ようやく体を無理やり起こし、準備を始めた。望んでやっているわけじゃない。やらなきゃいけないから、ただ機械のように動く。

仕事には意味がなかった。店主の怒鳴り声も、客の言葉も、すべてが遠く、ぼやけて聞こえる。商品をスキャンし、会計を済ませ、ただ流れるように一日が過ぎていく。

シフトが終わる頃には、疲れがまとわりついて離れない。だがそれは、睡眠で癒せる種類の疲れではなかった。

机の上に置かれたカップラーメンは、手つかずのまま。空腹ではない。というより、“何も”感じなかった。

それでも、箸を取り、無理やり食べる。

試験勉強も同じだった。ペンは動き、ノートは文字で埋まっていく。だが、頭はどこか遠くにあった。

成功するために勉強しているわけじゃない。崩れ落ちないために、ただ机に向かっているだけだった。

日々が溶け合っていく。

気づけば、日が週になり、週が月になった。

毎朝、見上げるのはひび割れた天井。耳に響くアラームの音。それでも動けない。

起きることすら苦痛だった。呼吸すら、面倒に感じた。

けれど、世界はそんなことお構いなしに回り続ける。だから無理やり起きて、服を着て、働いて、食べて、勉強して、寝る。それを、繰り返すだけ。

また一日が終わった。また一片の人生が、誰にも気づかれずに、静かに消えていった。

副業で体力を削りながら、真夜中の雨の中を一人歩く。

傘は手に持っていたが、開くことはなかった。冷たい雨が顔を伝い、静かな涙と混ざっていく。

誰も気づかない。誰も、最初から気づいてなどいなかった。

「明日が……試験か。」

雨音にかき消されるように、小さく呟いた。

──

一週間後、合格発表の日。

既に多くの人が掲示板の前に集まっていた。人々は押し合いながら、自分の名前を探している。

その中で、朝広 巧 は後ろの方に立っていた。動かないまま、ただ静かにその場に佇んでいた。

結果がどうであろうと、彼には関係なかった。

彼にとって、それは——もう、どうでもよかったのだ。

合格していることは、もう分かっていた。

それでも、目は自然と掲示板を探していた。

そして――

花沢 結希(はなざわ ゆき)

その名前を見た瞬間、呼吸が止まった。

……いたんだ。

遥か遠くにあったはずの存在が、突然、目の前に現れたような。手の届かないはずのものが、今ここにあるという現実に、胸の奥が空洞のように冷たくなった。

必死に忘れようとしていた人が、またこうして、自分の世界に現れた。まるで、運命そのものが、安らぎすら許してくれないようだった。

その時――

彼女を見つけた。

ほんの数歩先、掲示板の前に立ち、名前を探す結希の姿。そして見つけた瞬間――あの笑顔。

彼が何度も何度も、心の中で繰り返し思い出してきた笑顔。

「やったね、アリちゃん!」

彼女は振り向いた。そこにいたのは――

霧島 有祐(きりしま ありすけ)

高身長で、自信に満ちた雰囲気。何もかもが自然で、完璧な男。彼は掲示板を見ることすらせず、ただ結希が飛び込んできたその瞬間、すぐに彼女を抱きしめた。

その腕は、まるで最初からそこにあるべきもののように、自然だった。

巧の中で、何かが――確かに、音を立ててひび割れた。

結希は笑っていた。あの眩しいほどの笑顔で。

有祐は微笑みながら彼女を引き寄せ、柔らかな声で言った。

「だから言ったろ? お前は絶対に大丈夫だって。」

巧には分かっていた。

これは、自分の世界じゃない。

最初から、自分のものじゃなかったんだ。

試験には合格した。だがその瞬間――

すべてを失ったような気がした

巧の運命は、いつだって優しくなかった。