朝、美羅は巧に外へ出るよう促した。物資の補充でも、状況の確認でもいい、とにかく現状を目にして、エデンフォールへ報告する必要があると。
だが、都市は一夜にして激変していた。
シャッターの閉じた店が通りを埋め尽くし、窓は板で塞がれるか、粉々に割られている。政府機関の建物には落書きが広がり、かつての清廉な壁には「革命」や「偽りの支配者たち」といった反逆の文字が赤く黒く刻まれていた。
人々の間に走るささやき――抗議活動は終わるどころか、全面的な暴動へと発展していた。
一部の市民は自作の防具を身につけ始めていた。
他国で軍が民衆を武力で弾圧しているのを見て、彼らはもう油断しない。
警察の姿はほとんどなく、代わりに現れたのは富裕層を守るための武装した民間警備部隊だった。
一方その頃――
薄暗い部屋。壁には巨大なスクリーンが並び、世界中のマップやデータフィード、監視映像が絶えず切り替わっていた。
黒曜石の円卓を囲むのは、国家の顔ではない。
その背後に潜む「本当の支配者たち」――影のエリートたち。
選挙では選ばれず、誰からも問われず、誰にも触れられない存在。
だが、この部屋こそが、世界を動かす場所だった。
会議は、誰のものとも知れぬ機械音声によって始まった。
その声の主さえ、他の出席者たちには知らされていない。
世界中が混沌に包まれる中、この部屋だけが冷静で――だが、冷酷な意思決定の場であった。
最初に沈黙を破ったのはアメリカの代表。
冷たく、無慈悲な声。
「――日本。なぜ、彼を消し損ねた?」
「坂本 賢司博士の放送は、世界に火をつけたぞ。
南極の真実は、すでに制御不能な状態にある」
日本側の代表は深く頭を下げ、抑えた口調で返す。
「皆様に深くお詫び申し上げます。あらゆる手段で捜索を行いましたが、坂本博士は完全に姿を消しておりました。
……しかし、もっと重大なのは――彼の信号が、アメリカから発信されたという点です。なぜそのような事が?」
アメリカの代表の目が細くなる。
「……我々の責任だと? 処刑したのは我々だ。だが忘れるな――最後の仕事を我々が引き受けただけだ」
そこへ、ロシアの代表が低く、だがはっきりとした声で割って入る。
「やめろ。責任の擦り合いをしても、暴かれた事実は消えん。
南極の問題は、今や全人類の問題だ」
その言葉に続き、再びアメリカの声が響いた。今度は、焦燥と決断を帯びている。
「だからこそ……始めるべきだ。
新世界秩序の実行を。統一された、新たなる地球の権威を確立する時が来たのだ」
その提案に応じるように、中国の代表が手を組み、静かに頷く――
「急ぐべきではありません。東アジア――中国、韓国、日本。まだ我々は民を掌握しています。説得は可能です。
西洋のような不安定さとは違う。中国では、食料と産業も維持できている。抗議者も多少は騒がしいが、抑えられる。」
そこへ、韓国の代表が口を挟んだ。
「それは北の話でしょう。南ではすでに制御が効かなくなっています。暴動、襲撃、混乱の連続。
私も賛成です――今こそ、世界連合を作る時です。」
ロシア代表が、卓に集う者たちに向き直る。
「中東、東南アジア――本当の火種はそこだ。
その地域の代表たちは、どんな解決策を提示する?」
インドネシアのエリートが身を乗り出し、疲れを滲ませながらも鋭い声で語った。
「もう、民を宥めることはできません。
何十年も、貧しく、無知のままに置き去りにしてきた――決して立ち上がらぬように。
だが今、彼らは考えずに動く。燃やし、破壊し、クーデターを求めている。
私は連合を支持する。」
続いてUAE(アラブ首長国連邦)からの声が響いた。
「石油では、もう時間を買えない。
お前たちは我々の土地を兵器と戦争の実験場にした。
だが今、その兵器は我々自身に向けられている。
均衡はすでに崩れた――私も、連合に賛成する。」
日本の代表も頷いた。
「世界経済と民の安定のために、この崩壊は抑えねばならない。
連合はもはや選択肢ではない――必須事項だ。」
静かに、インドネシア代表が言葉を添える。
「長年、我々の民はお前たちの製品を買わされ、産業に搾取されてきた。
今、我々は何も持たない。買う金も、売る物もない。
通貨など、もはや冗談だ。
もし連合が秩序をもたらすのなら――我々は歓迎する。」
ロシア代表が、中国に目を向ける。
「中国――お前たちの台頭は、誰もが知っている。
今や西洋と並び立つ存在となった。
だが、この新たな世界において、孤独に昇るか――
均衡を取る者となるか?」
中国の代表は、沈着な声で応える。
「我々は同意しよう。だが――その座には、力を持つ者が座るべきだ。
未来は、力ある者によって形作られる。」
アメリカのエリートが重々しく口を開く。
「ならば、ここに宣言しよう。
我々――現在の“国際連合”の顔が、すべての責任を負う。
我々が、物語を作る。国際連合は終わる。
そして、新たな何かがその座に就くだろう。」
ロシア代表が立ち上がり、議場にその声を響かせる。
「では、異議はないな?
これが人類の血に染まった歴史に終止符を打つ瞬間だ。」
他の国々からの反対はない。
沈黙が、合意を意味していた。
――会議が閉じる中、水面下で“それ”は動き出していた。
人類が知っていた“世界”は、書き換えられようとしている。
そして、混沌に対する“世界のエリート”たちの答えは――
朝の淡い光が、巧のアパートの埃をかぶった窓を透けて差し込んでいた。
その光の中で、美羅は窓辺に立ち、静かに下の通りを見つめていた。
「巧……」
振り返らずに、彼女は静かに口を開いた。
「私、エデンフォールに戻らなきゃ」
ベッドの上で、巧が目を擦りながら体を起こした。
「今? 何があったの?」
「鷹村殿に呼ばれたの。」
美羅の声は静かだが、緊迫感があった。
「事態が動いてる。上層部が動き出した…準備の時よ。」
そう言って、彼女は巧のもとへ歩み寄り、そっと肩に手を添える。
「街の様子をしっかり見てきて。大丈夫。警戒は怠らないで。自分の勘を信じて。終わったら戻るから。」
巧は目を伏せ、小さく呟く。
「…やってみるよ。…ありがとう、美羅さん。」
彼女は視線を外さずに、少し強く告げる。
「それと…またあの闇に飲まれないで。もう二度と…命を捨てようなんて思わないで。ここまで来たんだから。」
巧は小さく頷いた。
「わかってる…美羅さん。」
ほんの一瞬、彼女の唇に珍しく穏やかな笑みが浮かんだ。
「気をつけてね、巧くん。」
そして彼女は振り返り、朝靄の街へと静かに溶け込んでいった。
巧は、また一人、変わり果てた世界に残された。
――朝から夕暮れまで、巧はインターネットを巡回し、世界の崩壊を示す情報をむさぼるように読み続けた。
見出しは変わらなかった――犯罪は依然として激増していた。
この国でも、警察は対応しきれず、事件は日々増えるばかりだった。
映像には略奪、強盗、暴力が並び、社会システムは崩壊寸前だった。
薄暗い部屋で一人、巧は呟いた。
「…ここはまだマシだけど、犯罪率は高いままだ。狙われるのは金持ちばかり…俺なんかには興味ないだろ。」
深くため息をつき、椅子にもたれる。
「でも、あの人は心配だ…でも、霧島と一緒に金持ちエリアに住んでるしな。
あそこには警備員も雇われてるし、たぶん大丈夫だろう…」
「少し、外の様子を見てこようか。」
立ち上がり、バッグを手にする。
「脇差は…ああ、そうだ、美羅さんが持っていったんだっけ。」
外に出ると、空は紫がかった鈍い色に染まり、夜の気配が街に広がっていた。
沈黙が支配する通りを歩く中、巧は異変に気づいた。
店はシャッターを下ろし、窓はバリケードで覆われている。
人々の気配もなく、カーテンが引かれた窓の奥に、静けさだけがあった。
広い通りに差し掛かったその時――巧の足が止まった。
アスファルトを低く震わす音が近づく。
ヘッドライトが闇を切り裂き、バイク集団が姿を現した。
顔は隠され、背中にはナタや鉄パイプを背負っている。
彼らはただ走っているのではない――探しているのだ。
巧は自販機の陰に身を潜め、息を殺した。
バイクはゆっくりと通り過ぎていく。
今、この街には、新たな「掟」が支配していた。
武装し、恐れを知らぬ野良の支配者たち。
「……もう少し歩けるな。隠れながら観察すれば。」
巧は、静かに街を巡った。
陽が沈み、夜が更けるまで、彼はまるで影のように動いた。
観察し、記憶し、適応する――それが、今の彼にできるすべてだった。
やがて彼は、富裕層のエリアへと足を運んだ。
高い塀に囲まれた豪邸たち。
私設の警備兵が見張りに立ち、サーチライトが闇を切り裂く。
通りに車は通るが、誰も立ち止まらない。
皆、ただこの混沌を追い払うかのように、速度を上げて走り去っていく。
静かな裏通りを曲がったその時――突如として、悲鳴が夜を裂いた。
「やめて!誰か…助けて!!」
巧の体が硬直する。心臓が跳ねる。
声の方へと振り返る――女の声。必死で、震えていた。
そっと路地を覗く。
そこには、四人の男たち。そして、一人の女。
女は地面に押さえつけられ、服は引き裂かれ、声を塞がれていた。
傍には、意識を失った男――彼女の恋人らしき人物。
血が地面に広がっていた。
男たちは酔い、笑い、暴力に酔い痴れていた。
巧の拳が震える。だが、足は動かない。
その時――美羅の声が脳裏に響く。
「面倒ごとは避けて。まずは生き延びること。自分を無駄にしないで。」
胸が締めつけられる。
「……ごめん、ごめん……本当にごめん……」
巧は、歯を食いしばりながら、背を向け――走った。
女の悲鳴が背後に響く。
笑い声。
地獄のような光景。
巧の目は焼けるように痛み、涙が頬を伝って落ちた。
彼は闇の中へと姿を消した。
救いたかった。
救えなかった自分が許せなかった。
それでも、彼は――逃げた。
「バカかよ……!」
巧は自分の頭を殴りつけた。
「助けられたかもしれないのに! なんで逃げた!? この臆病者……無力なクズが……!」
彷徨った。
自己嫌悪に呑まれたまま、ただ足が勝手に動く。
夜の冷気の中、彼の心は凍えたままだった。
脳裏には、あの路地の光景が何度も何度も再生される。
女の叫び。血の匂い。
そして自分の、逃げた背中。
彼は自分自身が、心の底から――嫌いだった。
やがて足は、知らず知らずのうちに富裕層エリアへと向かっていた。
高い塀の向こうには、警備と安全がある。
だが、その外側は違う――闇の中に獣が潜む世界だ。
獲物を狙い、特に女を――。
橋を渡る。
巧は思考の迷路に囚われたまま、視線を地面に落として歩いていた。
――そのとき。
「アリちゃんっ!!」
心臓が止まった。
その声――
目を見開く。知っている。忘れようがない。
結希だ。
思考よりも早く、体が動いた。
全力で駆け出す。
そして、彼の目に映ったのは――悪夢だった。
黒く光るスポーツカーが、道路のど真ん中で止められていた。
それを七人の男たちが囲んでいる。
バットや鉄パイプを手に持ち、顔にはマスク。
有介は地面に倒れ、意識を失いかけていた。
高級なジャケットは破れ、顔は腫れ、血まみれだった。
助手席から結希が叫んでいた。
男の一人がドアをこじ開け、彼女を無理やり引きずり出す。
「てめぇ、カギ渡せって言ってんだよ、金持ちボンボン!」
別の男が笑いながら言った。
「女は可愛い、車も高級、人生イージーモードかよ…ざけんな。」
「アリちゃんっ!! 大丈夫なのっ?!」
結希は必死にもがくが、両腕を男たちに掴まれ動けない。
一人が有介の髪を掴み、顔を持ち上げる。
「カギ渡せよ。女は……貸してもらうぜ?」
男たちがゲラゲラと笑った。
有介は血を吐きながら呟いた。
「……触るな……彼女に……」
「は?」
男がバットを振り下ろす。
ゴッ!!
有介の顔に直撃。
「アリちゃんっっ!!!」
結希の悲鳴が響く。
――巧の足が止まる。
体が震え、心臓の鼓動が耳に響く。
花沢 結希――
巧が愛した少女。
男が彼女の髪を掴み、顔をぐいと引き寄せる。
指で頬を撫でようとする。
「うわ、マジでかわいいな。タイプだわ。」
その瞬間――
巧が飛び出した。
影の中から、稲妻のように飛び出し、渾身の蹴りを一発。
男の顔面にクリーンヒット。骨が砕ける音と共に、男は車のボンネットに吹き飛ばされた。
一斉に振り返る男たち。
巧は低い構えで着地。
拳を握りしめ、燃えるような目で全員を睨みつける。
武器はない。
一人きり。
敵は七人。
だが――関係なかった。
今度は――逃げない。
「これは、俺の約束だ…絶対にお前を救う、結希ちゃん!」
果たされるべき、誓いの時が来る