"崩壊"

美羅は巧をアパートまで連れて帰った。

部屋に入った瞬間、巧はその場に崩れ落ちた。まるで糸の切れた人形のように、体を折りたたむようにして床に座り込む。

動かない。

虚ろな目で前を見つめながら、彼の視界には何も映っていなかった。

「……巧」

美羅は静かに呼びかけた。

返事はない。

彼のそばに近づき、腰を下ろす。

「巧くん……」

その声は震えていた。彼女はゆっくりと手を伸ばし、彼の頭を胸元へと優しく引き寄せた。

一瞬の静寂。

反応はなかった。動きもなかった。

しかし、やがてかすれた声が漏れた。

「美羅さん……俺も、あんなふうに……狙われるのかな」

その声には、命の温度がなかった。

感情の火が宿っていたはずの彼の瞳は、今やただの虚無だった。

美羅は抱きしめる腕に力を込めた。

「私たちは……違う。私が、絶対に守る」

そう言いながらも、彼の内側から溢れる“空っぽ”は、どうしても拭い去れなかった。

――坂本 賢司の事件は、世界に火を点けた。

最初は怒りだった。

しかし、それは瞬く間に世界中の国々を飲み込む“全面的な暴動”へと変貌した。

腐敗した世界。

限界まで溜まり続けた人々の不信と怒りは、坂本の告白によってついに堰を切った。

その日だけで、世界は崩壊した。

あらゆる国で政府に対する抗議が巻き起こり、支配者たちは次々に追い詰められていった。

軍が動いた。

暴動を防ぐために政府施設の警護に回る国もあれば、反抗する民衆に弾丸を向けた国もあった。

叫び声が消え、代わりに銃声が街を支配した。

血が流れ、自由を求める声が地面に吸い込まれていく。

世界は、戻れない場所まで来てしまった。

美羅は巧の部屋に居続けた。

テレビの中では、暴徒の群れ、銃撃、燃え上がる都市が延々と映し出されていた。

混沌が、世界を呑み込んでいた。

巧はベッドの上で体を丸め、震えていた。

耳をふさぎ、息は浅く、乱れ、怯えがその全身を包み込んでいた。

まるで闇の中に沈んでいくように。

美羅はしばらく彼を見つめていた。

その表情には感情が読み取れなかった。

そして、何も言わずにリモコンを手に取り、テレビを消した。

画面が暗くなり、部屋に再び静寂が戻る。

だが、その重さは消えることなく残っていた。

「……何も食べてないよ、巧くん」

優しい、けれども少し強い声だった。

「……いらない」

その返事はかすれて、聞き取りづらかった。

美羅はため息をつき、辺りを見回す。

「何か作ってあげる。冷蔵庫、見てみるね」

キッチンへと歩き、扉を開ける。

「……インスタント麺しかないじゃん」

巧は、無言のまま自分の世界に閉じこもっていた

彼女は立ち上がり、パーカーのフードを軽く整えた。

「外の様子を見てくる。あと、少しだけ食料も補充してくるね」

声は柔らかく、しかしその瞳はどこか張り詰めていた。

「巧くんは、ここにいて」

巧は返事をしなかった。

その身体をさらに小さく丸め、まるでこの世界から消えようとするかのようだった。

美羅がドアノブに手をかけたその時、背後から弱々しい声が彼女を止めた。

「……美羅さん、俺も一緒に……」

彼女の動きが止まる。

その声はあまりにもか細く、今にも崩れ落ちそうなほど不安定だった。

美羅はゆっくりと振り返る。

「だめ。巧くんはここにいて」

その口調は強く、拒絶の意思を込めていた。

「外の状況はまだ読めない。心配しなくていい……私は、強いから」

巧は彼女を見上げた。

空っぽだった瞳の奥に、わずかな光が宿る。

そして、ほんの少しだけ、口元がほころんだ。

「……脇差……」

巧は、かすれた声で呟いた。

「エデンフォールからもらったやつ。……あのバッグの中にある。持って行って、美羅さん……万が一のために」

美羅は視線をバッグに移し、それから再び巧の顔を見た。

静かに頷くと、バッグの中から鞘付きの脇差を取り出す。

「分かった」

そう答えると、腰にそれを装着し、再びドアの前に立つ。

振り返り、もう一度だけ巧の目を見て言った。

「もう一度言うよ。……ここにいて、巧くん」

返事は求めず、美羅はそのままドアを開け、そして静かに閉めた。

アパートには巧ひとりが残された。

彼の意識は、自然と彼女――結希の記憶へと沈んでいく。

高校時代のこと。まだ世界が平和だったあの頃。

彼女は違っていた。

誰も自分に興味を示さなかった中で、結希だけは、彼の存在に気づいてくれた。

皆に平等に接する、けれどどこか特別なその優しさ。

今、ベッドに丸まったまま、半分閉じかけた瞳の奥に浮かぶのは――

──彼女の笑顔の残像。

──あの屈託ない笑い声。

──そして、自分の名前を呼ぶ、あたたかな声。

それは、すべてが始まった、

高校一年の春だった。

「もうすぐ一ヶ月になるのに、ずっと名前も知らずに話してたんだね」と、彼女はある日、首をかしげながら言った。

「そうだね……お互い、自己紹介してなかった」

「じゃあ改めて!私は結希。同じクラスなんだし、『結希』って呼んでくれていいよ」

「それはもう知ってたよ……結希ちゃんは有名だからね。俺は巧。好きに呼んで」

彼女の目がいたずらっぽく輝いた。

「朝広 巧くん、か。じゃあ……巧ちゃんって呼ぶ!」

「……どうぞ」

彼は淡々と返した。

けれど彼女は笑い飛ばすことなく、柔らかく微笑んだ。

「これからもよろしくね、巧ちゃん」

その瞬間、巧の世界が変わった。

灰色で退屈だった毎日に、鮮やかな色が差し込んだ。

――その日、巧は恋に落ちた。

現実へと意識が戻る。

巧はスマートフォンを手に取り、インスタグラムを開いた。

トップに表示されたのは、結希の最新投稿だった。

夕食の席、彼女は笑顔で指輪をはめられていた。

キャプションにはこう書かれていた。

「またまた誕生日サプライズ🎁 ありがとう、アキちゃん❤️」

画面を見つめる巧の胸が、じわりと締め付けられる。

「……俺のプレゼントなんて、比べものにならないよな」

心がひねくれていく。

どうせ捨てられたか、捨てられていなくても……有介が壊したに違いない。

そんな考えを頭から振り払おうと、彼はさらにスクロールした。

だが目に飛び込んできたのは、世界の崩壊を告げる見出しばかりだった。

政府が次々と民衆の蜂起によって崩壊し、

まるで1998年のクーデターの再来――再び学生たちが火をつけた。

汚職まみれの知事たちは次々に暗殺された。

何者かによる銃撃によって。

軍は市民に銃口を向け、デモは内戦へと姿を変えていく。

死者数は加速度的に増え、ニュースは終わりなく流れ続けた。

巧はスマホの電源を切り、目を強く閉じた。

だが混乱は、脳裏から離れてはくれなかった。

賢司の言葉が頭の中に響く。

「彼らは英雄として死んだ……人類の自由のために」

呼吸が荒くなる。

脆くなっていた精神が、ついに崩壊した。

巧の心も、魂も――完全に砕け散った。

貧困の中、一人で生きていた彼に、恋は刃のように突き刺さり続けた。

ようやく見つけた希望――憧れの大学に合格したはずだった。

なのに――世界は、音を立てて崩れていった。

「……もう限界だ。耐えられない……」

嗚咽が漏れ、巧は自分の体を抱きしめるように丸くなった。震える身体を抱え、涙が止まらなかった。

そして——

まぶたの裏に、記憶がよぎった。

美羅。

そして彼を救ってくれた人々。

訓練の日々。

犠牲。

――エデンフォール。

彼らは、巧を信じてくれた。

彼らは、巧を救ってくれた。

「……彼らの想いを、無駄にしたくない」

その瞬間、一つの思いが心に形を成した。

「死ぬなら、せめて英雄として死にたい。俺の命が無価値なら、それを未来ある誰かに捧げたい。進み続けられる人に」

掌を見つめ、ゆっくりと握りしめた。

「……たとえば、君のために」

そう呟いた瞬間、結希の笑顔が脳裏に浮かぶ。

涙は止まらない。

目の奥は虚ろなまま。

けれど、ほんの少しだけ、笑みが浮かんだ。

未来を持つ誰かのために、自分の命を捧げる――

その覚悟に、迷いはなかった。

一方その頃、美羅は近くのコンビニへと向かっていた。

道中、街は怒号に包まれていた。政府庁舎の前には抗議者が集まり、軍がそれを押さえ込もうとしていた。

到着したコンビニは、もはや廃墟同然だった。

ガラスは割れ、扉は外れかけていた。

中に入ると、棚はほとんど空だった。

インスタント食品は、買い占めか、あるいは略奪で姿を消していた。

「すみません、誰かいますか?」

返事はない。

レジにも、スタッフの姿はない。

ため息をつきながら、残っていた数点の食料を拾い集めた。

そして、無人のカウンターにお金をそっと置いた。

「ここに置いておきます。……ありがとう」

誰も聞いていないことは、彼女自身が一番分かっていた。

袋を手に、混乱の渦巻く街へと再び足を踏み出す。

帰り道、美羅は一人の中年女性に呼び止められた。

「お願い……もう二日、何も食べてないの。外に出るのも怖くて……何か分けてくれませんか?」

疲れた表情。震える声。

――空腹は、何よりも正直だった。

美羅は一瞬だけ彼女を見つめる。

この状況下で、信頼は贅沢だ。だが、飢えは現実だ。

無言で袋を開き、パンを一つ差し出した。

女性の目に、涙がにじんだ。

「ありがとう……本当にありがとう……!」

深々と頭を下げ、パンを胸に抱く彼女に、美羅は軽くうなずくだけだった。

何も言わず、振り返らずにその場を後にした。

誰も信用できない世界。

だからこそ、必要以上に関わらない。

やがて巧の部屋に戻り、そっとため息を漏らす。

小さく、薄暗い室内。

外の世界が崩壊し続ける中、ここだけが時間を忘れたかのように静かだった。

「美羅? 戻ってくれてよかった」

巧の声には、わずかに安堵が滲んでいた。

「ええ」

彼女の声は落ち着いていたが、そこには外の惨状の重みが含まれていた。

「でも状況は、ますます悪くなってる。群衆には近づかないで」

腕を組み、美羅は真剣な表情で続けた。

「さっき通ったコンビニはもう空だった。扉は壊れてて、店員もいない。ガラスも割れてて……あれはもう、暴動の始まりよ」

巧は窓の外に視線を向けながら、静かに息を吐いた。

「これで昼間なんだ。夜になったらどうなるか、想像もつかない。賢司博士の件も、たった昨晩のことだし……」

あの夜、美羅は衝撃を受けた巧を無理やりアパートに連れ戻してくれた。

世界の真実を暴露した賢司博士の暗殺を聞き、彼は完全に心を閉ざしていた。

しかし、美羅に抱きしめられたことで、ようやく眠りについた。

そしてその夜、美羅は一晩中彼のそばで見守っていた。

「……今日の夜も、怖い? また泊まってあげよっか?」

顔をほんのり赤らめながら、美羅はそっと尋ねた。

「ありがとう、美羅さん」

巧は真剣な表情で返した。

「昨日は、本当に怖かった。でも、もう覚悟は決まった。今はすごく落ち着いてる。心配が全部消えたみたいな気分だよ。最初は、もう限界だって思った。全部終わらせたくなった。でも……気づいたんだ。美羅さんや、俺を守ってくれる人たちがいる。それを無駄にはできない」

そして、真っ直ぐに彼女を見つめながら言った。

「それでも死ぬなら、賢司博士みたいに――英雄として。

この無価値な命を、まだ未来がある誰かのために捧げたい」

美羅の目が見開かれた。

彼女は手にしていた食料袋を落とし、反射的に巧を壁に押しつけた。

顔を近づけ、彼の頭の横に手を突き出す。

「死なせない! 絶対に!」

女の子に壁ドンされるのは、巧にとって人生初の出来事だった。

胸の鼓動が高鳴り、返す言葉すら見つからなかった。

「……ただ、楽になりたかっただけなんだ」

虚ろな目で、そう呟いた。

「そんな形で楽になるなんて、許さない」

美羅の声は鋭く、けれど優しさが滲んでいた。

「……ごめん、美羅さん」

彼女は深く息をつき、声の調子を緩めた。

「何か作ってあげる。ちゃんと食べて。元気になるんだよ? わかった?」

「……うん、美羅さん」

夕食を食べ終えた後、巧は満足げに息をついた。

「美羅さん、すごく美味しかった……こんな手料理、久しぶりだ」

「気に入ってくれてよかった。さあ、全部食べて、休んで。今は何も考えないで」

彼女は彼の部屋に居座りながら、ネットで情勢を調べ続けていた。

「今のところは……静かね」

巧は窓の外を見ながら言った。

「ターゲットは主に政府機関や富裕層みたいだ。

ここはただの安アパート……誰も気にしてない」

「それならよかった。今は安全ね」

美羅は彼に目を向け、声を和らげた。

「でも、あなたは休まなきゃ。心が体を蝕んでる」

「もう大丈夫、美羅さん。料理、ありがとう」

巧はベッドに横になった。

美羅は彼の机で座ったまま、やがて眠りに落ちた。腕を枕に、穏やかな寝顔。

巧はまだ眠れずにいた。

彼女の静かな寝姿をしばらく見つめ、そっと立ち上がる。

そして、そっと毛布を取り、美羅の肩にかけてやった。