金曜日の夜。
巧は大学からの帰り道を歩いていた。
——美羅の警告から、ちょうど三日後のことだった。
駅を出て街に出た瞬間、
街の空気が一変する。
巨大モニター、広告ビジョン、駅の案内板、
あらゆる画面が一斉に“乱れ”、
未知の映像が突如として映し出された。
それはこの都市だけではなかった。
インターネット上でも、同じ現象が起きていた。
すべてのウェブサイト、すべての動画配信サービス、SNS、メディア——
あらゆるプラットフォームが、
一つの“発信元不明のチャンネル”へと強制的に切り替えられていた。
ざわつく群衆。
誰もがスマホを見つめ、
周囲を不安げに見回す。
「バグか?」「乗っ取られた?」「テロ……?」
一部の人々は、ただのハッキングだと思った。
だが、巧だけは違った。
——これは、“あの日”美羅が言っていたことだ。
「世界規模の放送」
まさに、それが始まったのだ。
画面にカウントダウンが現れる。
残り——五分。
理由も、説明も、前触れもない。
ただ“時間”だけが、静かに減っていく。
四分——三分——二分——一分——
そして——
カウントがゼロになった瞬間、
世界中のすべてのスクリーンに、一人の男の姿が映し出された。
白衣をまとい、疲れた顔に静かな覚悟を宿すその男——
彼の名は、坂本 賢司(さかもと けんじ)。
南極の真実を明かす調査チームの、最後の生存者。
失踪し、すでに死んだと噂されていた男。
だが、彼は今——
“生きて”、そこにいた。
そして、放送が始まった。
坂本 賢司博士の顔が画面に映し出される。
疲労の色が濃いその表情には、それでも消えぬ覚悟が宿っていた。
彼はゆっくりと息を吸い込み、語り始める。
「私の名は坂本 賢司、地球物理学者であり、南極遠征隊の最後の生存者です。
今日は、私個人としてではなく——
口を封じられた者たちのため、そして長きに渡って葬られてきた“真実”のために語ります。」
世界中が、沈黙の中で彼の声に耳を傾けていた。
「私たちの旅の始まりは、一つの“疑問”からでした。
それは、私の仲間たちと共有していた探究心でもありました。
私たちは、古代の地図、忘れられた信仰、
南極条約以前、そしていわゆる“月面着陸”以前の記録を調査していました。
そこには——
“南極の向こう側に何かが存在する”という囁きがあったのです。」
彼の声は徐々に力を帯び、聞く者の胸を重く押し潰していく。
「しかし、好奇心だけでは不十分でした。
我々には“手助け”が必要だったのです。
それは、裏で動いていた“ある組織”によるものでした。
彼らの支援を受け、我々は本来なら決して許されない探査計画を実行に移しました。
——アメリカ海軍のバード提督が残した記録に従い、
我々は“南”へと向かったのです。
人類が到達したことのない極限まで、
終わりなき氷の先へと。」
その言葉に、画面の前の巧の息が止まる。
彼の頭に、美羅の警告がよぎった。
「……“彼ら”って……エデンフォールのことか……?」
心臓が早鐘を打ち、全ての点が繋がり始める。
画面の坂本博士が深く息を吸い込む。
その表情は重く、暗い決意に満ちていた。
「幾日にもわたり、我々は氷原を突き進みました。
どの地図にも描かれていない地点へ。
コンパスは狂い、針は空回りし始める。
空気は重く、息をするたびに身体が軋む。
世界の“外側”へと、足を踏み入れたのです。」
そして——
「我々は、見たのです。」
その声は低く、敬意すら含んでいた。
「南極の向こうに広がる、“もう一つの大陸”。
それは荒廃した氷の大地ではありませんでした。
そこにあったのは——想像すら超えた、異界の風景。
漆黒の岩山が空を裂くように伸び、
生きているかのように蠢く霧に包まれていた。
時の流れから取り残されたかのような緑の渓谷。
その谷を走る川は、光を放ち、風は命を帯びていた。」
巧は目を見開いたまま、息を飲む。
坂本博士が身体を前に傾け、机の縁を両手で掴む。
「そして、我々は目撃したのです。
“空に浮かぶ島々”を——
巨大な岩塊が、まるで天から切り離されたように漂い、
重力の存在を嘲笑うかのように空に留まっていた。」
博士の声は、次第に熱を帯びていく。
「さらには——動く砂漠。
地下から噴き出すガスによって、砂は液状に変わり、
その“砂の海”を泳ぐようにして現れたのは……
黄金に輝く双角を持つ“クジラのような生物”。
水ではなく、砂の波を切り裂くその姿は、神話の幻獣そのものだった。」
そして——
「それだけではない。
我々が知っていた“生物の常識”は、すべて覆された。」
坂本博士の声が震える。
「“カモノハシ”を、地球の奇形として見ていたなら——
あの地では、それが“当たり前”だった。
——サイの皮膚を持つ“熊”。
——空を飛ぶ、巨大な羽をもった“馬”。
——溶岩に身を浸すことで羽根を再生する“火の鳥”。
我々が“伝説”として片付けてきたもの——
それは、確かに“そこに存在していた”のです。」
カメラ越しの坂本博士が首を振る。
その目は深い虚無を映していた。
「しかし、そこに存在していたのは“命”だけではありませんでした。
理(ことわり)そのものが崩れていたのです。」
坂本 賢司博士は、荒く息を吐きながら、机の縁を強く握りしめた。
まるで、自分の存在を現実に繋ぎとめるかのように。
「重力は、突然に狂い始めました。
ある場所では、何かに押し潰されるように地面に縛り付けられ——
また別の場所では、風に舞う埃のように、体が宙に浮かびました。
植物さえも、地球の法則には従いませんでした。
風に揺れるのではなく——
“意思”を持って動いていたのです。
根は触手のように地を這い、何かを探すように伸びていた……。」
博士は震える息を整えながら、言葉を絞り出す。
「そこは、ただの“失われた大陸”ではなかった。
それは——“完全に別の世界”だったのです。
奴らが私たちに見せてきた“幻想”の裏に隠された、真の世界。
“嘘”の下に埋もれてきた“現実”だった。」
坂本 賢司は、一瞬目を閉じた。
握りしめた拳が震えている。
記憶が、仲間たちの声が、彼の内側で再生されていた。
共に進んだ探求者たち。
そして……もう、戻ってこない者たち。
再び目を開けた時、
そこには“恐怖”だけではなく——
“怒り”が燃えていた。
「人類は、本来“自由”であるべき存在だった。」
その声は、確信に満ちていた。
「世界を知り、探し、真実を暴く権利があるはずだった。
だが、我々は——“檻”の中に閉じ込められていた!」
バンッ!
机を叩く音が、放送を通じて全世界に響いた。
「神を気取る者たちがいる。
支配階級と呼ばれる連中——
富を独占し、力を隠し、世界を己の玩具に変えた者たち!
彼らは“無から金を生み”、
民を苦しめ、搾取し、命を削って肥え太っている!
彼らだけの“楽園”を築き、
我々はただの“駒”として使い捨てられているのだ!」
その叫びには、悲しみと怒り、
そして——消えない炎が込められていた。
「……仲間たち。
真実を追い求めた同志たちは、皆、口を封じられた。
記録を抹消され、闇に葬られた。」
彼は、悔しさに唇をかみながら、言葉を続けた。
「だが——彼らは、“無駄死に”ではなかった。」
静かに息を吐き、目を細める。
そしてその声が、再び力を帯びる。
「彼らは“英雄”として死んだのだ。
この人類を、“真の自由”へと導くために!」
彼の手は、机の端を掴み、白くなるほどに力がこもっていた。
呼吸は荒く、だがその眼差しは、カメラの向こう側——
世界中の人々の心を貫こうとしていた。
「目を覚ませ、人類よ!
立ち上がれ!
この幻想を打ち砕く時は——“今”だ!」
その声は、燃えるように鋭く、熱を持ち、揺るぎなかった。
「……だが、私が今ここで語ったのは、真実のほんの一部にすぎない。」
坂本 賢司の視線が、さらに鋭さを増す。
「南極の向こうにあるもの……それは——」
銃声が鳴り響いた。
鋭く乾いた一発——
その銃弾は、正確かつ容赦なく坂本 賢司の額を貫いた。
つい先ほどまで“覚悟”に満ちていたその瞳は、今やただ虚空を見つめるだけだった。
そして——
画面は暗転した。
世界は静寂に包まれた。
坂本 賢司が語るその間、
数百万……いや、数十億の視線が、
モニター越しに彼を見つめていた。
家の中で。
カフェの中で。
地下鉄のホームで。
そして都市の街角で——
人々は息を止め、彼の言葉ひとつひとつに耳を傾けていた。
信じられないという表情のまま凍りつく者。
事の重大さを理解できず、ただ呆然とする者。
——その時だった。
雷鳴のように鋭く、
容赦のない銃声が放送を裂いた。
どこからともなく悲鳴が上がる。
誰かが叫び、
誰かがモニターから後ずさる。
まるで、その暴力がガラスの向こうから襲いかかってくるかのように。
誰かは言葉を失い、
誰かは膝をつき、
誰かはただ、顔から血の気が引いていった。
まるで——命ごと奪われたかのように。
都市のあちこちで怒号が飛び交い、
ネットは怒りの嵐に包まれた。
掲示板、SNS、ライブ配信——
あらゆる媒体が、この出来事で溢れた。
怒りと混乱の中で、
人々は街に溢れ出した。
彼らは叫ぶ。
彼らは問いただす。
何十年も、いや何世代も隠されてきた“嘘”の証拠が、
ついに表に出たのだ。
それは“恐怖”では終わらなかった。
それは“怒り”となった。
そして——
“抗う意志”となった。
その中心で、巧はただ立ち尽くしていた。
怒声と足音の波に飲まれながら、
彼はただ、
呆然と画面を見つめ続けていた。
その表情には驚きと戸惑いが刻まれていた。
口はわずかに開き、
目は虚ろに揺れる。
だがその内側には——
圧倒的な“虚無”が広がっていた。
——その時だった。
フードをかぶり、マスクをつけた一人の少女が人波を抜けて近づいてきた。
彼女は無言のまま、巧の手を強く掴んだ。
何も言わず、
ただ彼を引っ張るようにして歩き出す。
巧は抵抗しなかった。
まるで意識のない人形のように、
ただ、ついていった。
ネオンの灯りが滲む夜の街を、
彼女はまっすぐに進み、
彼は黙ってそれについていく。
クラクションの音も、
歩道を行き交う人々の声も、
遠くで鳴るサイレンの音も——
何ひとつ、彼には届かなかった。
やがて、彼女は巧の自宅アパートにたどり着いた。
ドアを閉める音が響き、外の喧騒を遮断する。
それでも、巧の表情は変わらなかった。
無言のまま、魂の抜けたような瞳でただ立っていた。
少女は、ゆっくりとフードを下ろし、マスクを外す。
現れたその顔は——
美羅だった。
全てが崩れた時に、
彼を“助ける”と約束したその人。
——彼女は、約束を果たしたのだった。
真実が暴かれた。
幻想は砕かれた。