エデンフォールで三ヶ月の訓練を終えた巧が戻ってきた世界は、もはやかつての面影を残していなかった。
大学の授業はほとんどがオンラインに切り替わっており、登校している学生はわずか。
賑やかだったはずのキャンパスは、今や幽霊が徘徊するような静けさに包まれていた。
そして夜の街には、これまで感じたことのない“危険”の気配が漂っていた。
インターネットを通して、世界の崩壊がどれほど深刻かを巧は知ることになる。
犯罪は過去最高を記録し、
抗議運動は暴動へと発展。
いくつかの国では軍事クーデターが政権を転覆させていた。
経済は自由落下のように崩壊し、
インフレは貨幣の価値を奪い去り、
富裕層は飢えた群衆にとって標的となった。
——わずか三ヶ月。
それだけで、世界は変わってしまった。
巧が知っていたあの世界は、もうどこにもなかった。
残されていたのは、もはや見慣れた風景ではなかった。
殺人、強盗、暴行——
あらゆる国で犯罪率は急上昇し、
かつて“安全”と呼ばれた都市も、今では危険地帯と化していた。
世界各地で大規模な抗議デモが発生し、
人々は政府に説明を求め、腐敗や隠された計画が次々と明るみに出る。
南極事件が、その火に油を注いだ。
研究チームの大半が死亡、または行方不明。
そして、メディアは一斉に沈黙。
疑惑と不信が、世界中に広がった。
インターネットには質問と陰謀論、そして怒りが溢れ返っていた。
——そして初めて、人々は「真実」を知り始めた。
この世界には、神のように振る舞い、
人類を“家畜”のように扱っている者たちがいると。
混乱はさらに加速した。
インフレが制御不能に陥り、
貨幣は紙切れと化し、
生きるために必要な物すら手に入らない。
生存とは“戦い”であり、
崩壊していくこのシステムと向き合うしかなかった。
犯罪の急増。
政府への信頼の崩壊。
広がる絶望。
世界は、もはや無政府状態一歩手前だった。
——そんな状況の中で、巧が最初に思い浮かべたのは、結希のことだった。
この混沌とした世界の中で、彼女は無事だろうか。
心配になった巧は、彼女のInstagramを開いた。
最後の投稿は三日前。
そこには高級そうなネックレスを嬉しそうに見せる結希の笑顔。
それは、彼氏から贈られたプレゼント。
そして、隣には有介が寄り添って映っていた。
二人の幸せが、写真の中に閉じ込められていた。
巧の心配は、静かな哀しみへと変わっていった。
それでも、巧は彼女の誕生日プレゼントを用意した。
小さな猫のキーホルダー——
有介のような高価な贈り物ではなかったが、
それでも“自分からのもの”だった。
それだけで十分だった。
結希に会えることを願い、
巧はオフライン授業に通い続けた。
毎日、周囲の顔を注意深く見渡しながら——
——そして、一週間後。
ついに、彼女の姿を見つけた。
どうやら、提出書類のためにキャンパスに来ていたらしい。
「結希ちゃん!」
遠くから、巧は手を振った。
結希が振り返ると、目を見開いた。
「たくみちゃん! 久しぶりだね!」
「うん。休学から戻ってきたところなんだ。」
訓練のことは語らなかった。
けれど、明らかに変わっていた。
姿勢はまっすぐになり、身体もほんの少し、たくましくなっていた。
「なんか雰囲気変わったよ?」
彼女は手を伸ばして、身長を比べるような仕草をした。
「ちゃんと背筋伸ばして歩くようになったから、余計に背が高く見えるのかも。」
「ちょっとだけね。」
巧は照れくさそうに笑った。
彼女の手には書類が挟まれている。
「ねえ、このあと……少しだけ時間ある?
話したいことがあって。」
「話って?」
「この前、誕生日の投稿見たから……
ちょっとしたプレゼント渡したくて。
遅れちゃったけど。」
「えー、プレゼント? うれしいけど……」
結希は微笑んだ。
「今日は時間あんまりないかも。有介と夜ごはんなの。
また誕生日サプライズらしくて、ふふっ。」
無邪気に笑うその横顔に、
巧の心のどこかが静かに締めつけられた。
「そっか。……うん、大丈夫。
また今度ね。」
放課後、校舎ロビーの出口付近。
「結希ちゃん、これ……
猫、好きって言ってたから……気に入るかな?」
そう言って、巧は小さな猫のキーホルダーを差し出した。
結希の目がぱっと輝いた。
「わぁぁ! かわいい~!」
「カバンにもつけられるよ。
……どうかな?」
そう尋ねる巧の笑顔の奥に、
ほんの少しだけ、切なさが滲んでいた。
「すっごく好き。ありがとう、たくみちゃん。」
「うん。それだけなんだ。
長く引き止めるつもりはないよ。
来てくれて、ありがとう、結希ちゃん。」
「ううん、こちらこそ。
このプレゼント、本当にうれしい。」
そう言って、結希は笑顔で手を振り、
背を向けて歩き出す。
その先には、彼女を迎えに来ていた有介の姿があった。
彼のもとへと歩いていく彼女の背中を見送りながら、
巧の胸には静かな痛みが残った。
——まるで、自分の贈り物なんて、
何の意味もなかったかのように。
結希は確かに笑っていた。
だが、それは一瞬のものだった。
ただの礼儀。
心の底からの笑顔ではなかった。
——分かっていた。
今夜、彼氏はもっと大きなサプライズを用意しているのだろう。
高級で、華やかで、彼女の期待を遥かに超えるような——
それに比べて、自分は——
何も持っていない。
けれど、この崩壊しつつある世界の中で——
そして、自分がいつ“狙われる側”になるかもわからない現実の中で。
せめて何かを渡したかった。
愛した人に、何かひとつ——
日常の中で、ふと使ってくれるようなものを。
その様子を、少し離れた場所から美羅は静かに見つめていた。
気づかれることもなく。
誰よりも近くで、誰よりも静かに、彼を“監視”していた。
——二日後。
結希の姿は、キャンパスから完全に消えた。
どうやらオンライン授業に切り替えたらしい。
一方で、巧は変わらずオフラインの授業に出続けていた。
どこかで、偶然でも彼女と再び出会えるかもしれない——
そんな希望を、捨てきれずに。
その時だった。
美羅が、彼の前に姿を現した。
「たくみくん。」
「美羅さん……? なんでここに?」
「倉崎殿の命令よ。
引き続き、あなたを“監視”するように、って。」
そして、少しだけ声のトーンを落とす。
「でも今日は——たくみくん、少し話さない?」
「……わかった。」
二人はキャンパスの廊下のベンチに腰を下ろす。
「まずは、あなたの精神状態について。」
美羅は、遠慮のない直球で切り出した。
「彼女のこと、もう諦めなさい。」
巧の肩がわずかに揺れる。
「……何?」
「花沢 結希のことよ。
あなた、彼女のことが好きなんでしょう?」
「それは……」
言葉に詰まり、目を伏せる。
「忘れなさい。
それは、あなたを傷つけるだけ。
彼女には彼氏がいる。……それが現実。」
「……わかってる。」
巧は息を吐き、空を見上げた。
「俺の世界は、ずっと“無彩色”だった。
灰色で、音もなく、空虚で……
でも、彼女が話しかけてくれたとき——
世界に色が差し込んだんだ。
笑ってくれるだけで、話してくれるだけで……
それだけで、生きててよかったと思えた。」
口元には微笑みが浮かんでいたが、
その目に宿る哀しみは、あまりに深かった。
美羅はため息をついた。
「……バカみたい。」
「……そうだね。バカだと思うよ。」
巧は小さく笑った後、ふっと真顔に戻る。
「でも——あの日、気づいたんだ。
彼女は“閉じ込められてる”、美羅。」
その言葉に、美羅は何も返さなかった。
ただ、静かに耳を傾けていた。
「有介は……何でも与えられる存在だ。でも、彼は過保護すぎる。
支配的で、彼女を閉じ込めている。」
巧の声には、深い哀しみが宿っていた。
「結希は両親にも相談したらしい。
助けてほしくて、きっと勇気を出して……
でも返ってきたのは、“彼といなさい”という言葉だけ。」
彼は少し言葉を止めた。
その目は遠くを見つめ、まるであの笑顔の裏に隠れた、
結希の“本当の気持ち”を想像するかのように。
「そして……彼女は、俺に聞いたんだ。」
「そのときの俺は、他の誰とも同じ答えしか返せなかった。
何も理解していなかった。
……彼女が本当に求めていたのは、
“誰かに助けてほしい”っていう、心の叫びだったのに。」
その語り口には、深い後悔と痛みがにじんでいた。
まるで、結希の笑顔の裏にあった苦しみが、ようやく聴こえてきたかのように。
美羅は黙って彼の横顔を見つめていた。
いつもの軽口や皮肉は一切なかった。
「……いつか俺が、あの子を救う。」
巧の声は静かだったが、揺るがなかった。
「それが、俺の約束だ。」
美羅は視線を逸らした。
その表情は読み取れない。
「……もったいないね。
その純粋さ、向ける相手を間違えてる。」
しばし沈黙のあと、美羅が口を開いた。
「じゃあ……あなたは、二人に別れてほしいの?」
「わからない。」
巧はどこか遠くを見つめたまま、小さく笑う。
「でも……あの笑顔を奪った相手から、
俺が彼女を“取り戻す”。」
その言葉に、美羅の目がわずかに揺れる。
「……でもそれは、あなたの力じゃどうにもできない“タイミング”だよ。」
巧は静かに笑った。
「かもね。」
——それでも、彼は“約束”した。
彼女のために。
彼女を、取り戻すために。
巧と美羅が結希の話を続けていた頃、
美羅の表情には、わずかな焦りと不安が浮かび始めていた。
彼の心が、あまりにも彼女に囚われているように思えたからだ。
「……あの二人のことは、あなたにはどうにもできないの。
だから、そんなに気にしすぎないで。」
美羅は優しく言った。
「……あまり、彼女のことを考えないようにして。」
「うん、わかってる、美羅さん。」
巧は静かに頷いた。
「前にも言ったけど、エデンフォールから動きがあれば、私があなたに伝えるって。
——で、今こうして来たの。」
「……何かあったの?」
巧の声には、自然と興味が滲んでいた。
「三日後、私たちの計画を実行する。
世界規模の“放送”をするの。」
「……放送?」
聞き返す巧の表情に、疑問が浮かぶ。
「この放送が、世界をさらに混乱させるかもしれない。
だから、ちゃんと意識しておいてほしいの。
でも……さっきあなたの顔を見てたら、すごく悲しそうで。
だから、お願い。花沢 結希のことは、もう考えないで。」
美羅はそっと顔を近づけ、声を潜める。
「今は公の場所だから、詳しくは言えない。
何も聞かないで。何も言わないで。
ただ“その時”を待って、それにどう人々が反応するかを見て。」
「……わかった、美羅さん。」
「もし状況が悪くなったら——
そのときは、私が迎えに行く。」
声のトーンが少し優しくなった。
「ありがとう、美羅さん。
……心配してくれて。」
美羅の頬が一瞬赤く染まり、視線を逸らす。
「べ、別に……!
それが、私の“任務”だから!」
「……それでも、ありがとう。」
巧の小さく、けれど真っ直ぐな微笑みに、
美羅は何も言い返せなかった。
「どういたしまして。
……じゃあ、私はもう帰るね。準備もしないと。」
少し歩き出したところで、美羅は振り返り、指を一本立てる。
「いい? 約束して。
彼女のこと、考えすぎないって。」
「……頑張ってみるよ、美羅さん。」
美羅は軽く頷き、背を向けて歩き去っていった。
残された巧は、ベンチに一人座りながら、
目の前を過ぎていく世界の音をただ静かに聞いていた。
エデンフォールが、動き出す。