"準備"

倉崎 美羅——エデンフォール日本支部において、最も危険で、最も高い戦闘力を持つ暗殺者。

その素早さ、正確さ、そして容赦のなさは、裏社会で恐れられる存在だった。

彼女と巧が地下の訓練施設へ足を踏み入れたとき、

そのあまりの広さと設備の充実ぶりに、巧は思わず言葉を失った。

「……本当にここ、地下なのか……」

巧は周囲を見渡しながら、驚いたように呟いた。

美羅は腕を組んだまま、彼の方を向いた。

何かを言おうとしたその時——巧はそっと視線を落とした。

「……倉崎さん、助けてくれて、ありがとう。」

美羅は一瞬瞬きをし、視線を逸らす。

ほんのりと頬に紅が差す。

「……美羅でいい。『さん』とか、いらないから。」

「そ、そう? じゃあ……ありがとう、美羅さん。」

「……はぁ。」美羅は軽くため息をついた。

「それと……綾翔のこと、ごめんね。あいつ、いっつもああなの。変なことばっか言ってて、ちょっとウザいでしょ。」

巧はかすかに笑った。

「……大丈夫だよ、美羅さん。」

——彼が知らなかったのは、すでに綾翔が気づいていたということ。

美羅は、彼に対して心を開き始めていた。

彼女が“監視任務”として巧につけられた当初から、

彼を陰から見続け、彼についてあらゆる情報を集めてきた。

身長175cm。端正な顔立ち。

だが、その控えめな性格ゆえ、他人の目にはまるで存在しないかのようだった。

常に一人で過ごし、顔を上げることすら少なく、まるで世界そのものを避けているかのような眼差し。

周囲の誰からも“ただの無口な天才”として扱われ、

退屈で、近寄る価値もない男——それが、彼に対する評価だった。

だが、今——

“誰か”が彼に歩み寄っていた。

訓練場には活気が満ちていた。

素手の格闘に打ち込む戦士たち、近接武器を手に鍛錬する訓練生たち、

そして銃撃訓練に集中する射撃兵たち。

汗と鋼の匂いが入り混じり、剣戟と銃声が規則正しく響いていた。

美羅は、騒がしさに包まれた場内を迷うことなく進みながら、落ち着いた口調で言った。

「まずは、格闘の基礎から始めるわ。

その後で、自分に合った武器を選んでもらう。」

彼女は、ずらりと並んだ武器棚を指さす。

そこには、刀、短剣、鋼線、弓、拳銃、ハンマー、杖——あらゆる武器が揃っていた。

「……その前に、まずは訓練用の服に着替えて。」

近くの訓練生の方を向いて、美羅が指示を出す。

「彼に訓練用のセットを。」

「はいっ、倉崎さん!」

訓練生はきびきびと返事をした。

巧が訓練用の服に着替えて戻ってくると、他の訓練生たちと並んで腰を下ろした。

前方には美羅が立ち、周囲を静かに見渡していた。

だが、始めようとしたその時——

背が高く、筋肉質の男が近づいてきた。

自信に満ちた態度、どこか馴れ馴れしい空気を纏っている。

「おっ、倉崎ちゃんじゃん。久しぶりだな。

綾翔と一緒に戻ってきたのか?」

美羅は息をついて答える。

「ええ。鷹村殿からの直々の指令よ。

それと……」

彼女は巧を顎で指した。

「彼は、私の担当。」

男は片眉を上げ、にやりと笑った。

「へぇ? “君の”って……彼氏でも連れてきたのか?」

その瞬間、美羅の顔が真っ赤に染まる。

「はぁっ?! なに言ってんのよ、うつしさん!?

ち、違うから! もう……なんでここの男って、綾翔そっくりなのばっかりなのよ!?

い、いや、これは任務だから! 鷹村殿の命令で、私が彼を個人的に鍛えることになってるの!」

巧は黙ってそのやり取りを見つめていた。

彼女の困惑は、明らかだった。

美羅は一度深く息を吸って、冷静さを取り戻す。

「巧くん、こっちに来て。」

巧は立ち上がり、彼女のもとへ歩み寄る。

「この人は、うつし先生。

近接武器、特に刀の使い手よ。」

男は手を差し出し、にやりと笑った。

「俺は木枯 うつし。うつしって呼んでくれたらいい。」

巧も手を握り返す。

「朝広 巧です。よろしくお願いします。」

うつしは少し身を屈め、茶化すような笑みで囁いた。

「で、倉崎ちゃんの彼氏ってわけか?

そりゃあ名前で呼ばれてるのも納得だな、あはは。」

巧の身体が少しこわばる。

「い、いや、そういうわけじゃ……」

「はぁっ!? だから違うって言ってるでしょ、うつしさん!!」

美羅は腕を組み、苛立ちを隠さずに叫ぶ。

「彼は私の訓練対象!

格闘訓練が終わったら、あなたが武器訓練を引き継ぐってだけだから!」

うつしは肩をすくめ、笑いながら答えた。

「はいはい、わかったよ、倉崎ちゃん。

終わったら教えてくれ。……デート、楽しんでな。」

その瞬間、美羅の目がピクリと動いた。

顔は真っ赤に染まり、迷うことなく右足を鋭く振り抜く。

狙いはうつしの頭。

彼はギリギリでそれを避け、笑いながら後退する。

「あははっ! ごめんごめん、倉崎ちゃん!」

彼はふざけた調子でぺこりと頭を下げた。

美羅は指を鳴らしながら言った。

「その態度、続けるならここで模擬戦やるわよ。」

うつしはすぐに両手を上げて降参のポーズ。

「それは勘弁。俺、自分の限界くらいは知ってるから。

相手が“エデンフォール最強”じゃ、勝てる気しないって。」

美羅は鋭く息を吐き、苛立ちを振り払うように頭を軽く振った。

そして再び巧の方を向く。

「……はい。茶番はここまで。始めるわよ。」

日々が過ぎ、週が重なるたびに、巧はエデンフォール本部で容赦なく訓練を積んでいた。

ひとつひとつの動き、ひとつひとつの技術——

美羅は正確にそれらを叩き込んだ。

そして巧は、それらすべてを驚異的な速度で吸収していった。

彼の適応力は異常だった。

素手による格闘技術を、誰よりも早く身につけた。

さらに、刀術、近接武器、投擲武器にまで手を広げ、

その動きは鋭さを増し、本能すら研ぎ澄まされていった。

わずか二ヶ月半。

その成長は、誰の目にも明らかだった。

エデンフォール内部では、噂が広がっていく。

「天才だ。」

「生まれつきの戦士だ。」

「エデンフォールの神童だ。」

「……もうすぐ三ヶ月か。」

美羅は穏やかな笑みを浮かべながら、成長した巧を見つめた。

「ここまで早く覚えるなんて、正直、想定外だった。」

「美羅さんとうつしさんが優秀な指導者だったからです。」

巧は軽く頭を下げ、感謝の言葉を返した。

美羅は腕を組んだまま、彼をじっと見つめた。

あの日、ここへ連れてきた時とは、まるで別人のようだった。

巧の表情が引き締まる。

「……地上はどうなってる?

あの日、俺のスマホはアパートに置きっぱなしだったから……

それ以来、何の情報も見てない。」

美羅の笑みが消える。

しばらく黙ったあと、重い口調で答えた。

「すぐに分かるわ。でも……想像以上よ。」

彼女は深く息をつき、声を低くする。

「犯罪率は跳ね上がった。

世界経済は崩壊寸前。

インフレは制御不能で、もはやお金の価値なんて無いに等しいわ。」

巧の目を見つめながら、彼女は続ける。

「人々は富裕層を敵視してる。

もう“絶望”が、世界の空気を支配してる。」

巧の拳がわずかに震える。

「……そこまで酷いのか。」

「ええ、酷いわ。」

美羅は頷いた。

「警察も追いつかない。

犯罪の件数が多すぎて、手が回らないの。

混沌が蔓延してる。」

巧は眉をひそめた。

「つまり……無政府状態ってことか?」

「まだ完全には、ね。」

美羅は首を横に振った。

「でも、もうすぐよ。政府も秩序を維持できなくなってきてる。

エデンフォールが出来る範囲で動いてるけど……それでも足りないの。」

巧は深く息を吐いた。

自分が地下で訓練に没頭していた間に、

かつて知っていた“世界”は音を立てて崩れていたのだ。

「……俺が、やるべきことは?」

美羅は彼の視線をしっかりと受け止めた。

「それは、あなたが決めることよ。」

その瞬間——

巧の脳裏に、記憶の奔流が駆け巡る。

あの学食での光景。

有介が彼に言い放った、あの言葉。

「お前が彼女を好きなのは知ってるよ。

でも今は、結希は“俺のもの”だ。

お前には、何もできない。

俺は金持ちだし、結希は幸せそうだ。」

その時、巧は拳を握りしめ、

喉の奥に湧き上がる苦味を、ただ飲み込んだだけだった。

——そして、別の記憶。

あの日、結希がこちらを向いて、笑顔で手を振ってくれた時のこと。

「巧ちゃん!」

「結希ちゃん……会うべきじゃない。」

「どうして? 何があったの?」

「有介に言われたんだ。お前に近づくなって。

お前は彼と一緒にいて幸せなんだろ?

だったら、言う通りにしておけよ。

お前が笑ってるだけで、俺には十分だ。

これ以上、二人の間に波風を立てたくない。」

彼女の表情が変わる。

瞳の光が、ゆっくりと沈んでいく。

「たくみちゃん、今の世界で……あなたは幸せ?」

「え……?」

「有介のこと、最初は本当に好きだった。

でも付き合い始めてから、彼……すごく過保護になってきた。

お金も、権力もあって……その中で私は、閉じ込められてるみたいで。

それでも、両親には言われたの。“彼と一緒にいなさい”って。」

巧は少し間を置いてから答える。

「……親御さんの言う通りだよ、結希ちゃん。

彼なら、君に必要なものは何でも与えられるし、きっと幸せになれる。」

結希の視線が落ちる。

失望の色が、その横顔に浮かんだ。

「そう……それが、たくみちゃんの答えなんだね……」

——そして、現在。

巧は拳を握りしめていた。

自分は、見えていなかった。

“正しいこと”をしたつもりだった。

でもそれは、彼女をまた周囲と同じ檻に押し込めただけだった。

彼女は“理解”を求めてきた。

痛みを見てくれる誰かを探していた。

それなのに、自分は——応えてやれなかった。

彼は大きく息を吐き、美羅の方へ向き直る。

「美羅さん、大学に戻りたい。

……確認したいことがある。」

美羅は腕を組んだまま答える。

「……今のあなたなら、自分を守れる。

鷹村殿には私から話しておく。」

巧は力強く頷いた。

「ありがとうございます、美羅さん。」

美羅は一瞬、彼の目をじっと見つめ、ため息をついた。

「無茶だけは、しないでよ。」

巧は小さく笑みを浮かべた。

「大丈夫。しないよ。」

エデンフォール本部、重厚な扉の向こう。

広い執務机の奥で、雷善は指を組んだまま、巧を静かに見据えていた。

その傍らには、背筋を正して立つ美羅。

「だが、お前はこれからも監視対象だ。倉崎 美羅、引き続き見張れ。」

「……了解しました、鷹村殿。」

巧は深く頭を下げる。

「これまで、本当にありがとうございました。

訓練も、迎え入れてくださったことも、すべてに感謝しています。」

雷善は黙って頷いた。

その沈黙の中に、確かな“承認”があった。 

部屋を出て、巧は深く息を吸う。

次に進む覚悟は、もうできていた。

すると、美羅が彼の前に立ち、小さなバッグを差し出す。

「これ、鷹村殿からの支給品よ。

今後のために。

必要な時が来れば、エデンフォールから連絡する。」

巧はバッグを受け取り、中を覗いた。

札束がぎっしりと詰まっていた。

数ヶ月は困らないだろう。

その底には、小ぶりな刀が一振り。

彼は肩紐を強く握りしめた。

——帰る時が来た。

「じゃあ、またね。美羅さん。」

不意に、美羅が一歩踏み出し、

彼を力強く、そして短く抱きしめた。

巧は動けなかった。

突然すぎて、反応する間もなかった。

すぐに彼女はハッとしたように手を離し、顔を真っ赤にして後ろを向く。

「ご、ごめん……たくみ……!

じゃあ、また……見てるから……!」

巧はくすっと笑い、バッグの紐を背にかけ直す。

「うん。またね。」

そして、彼は歩き出した。

エデンフォールの神童が、ついに動き出す。

雷善はデスクに肘をつきながら、指先でリズミカルに天板を叩いていた。

その静寂を破るように、机の上でスマートフォンが震える。

彼はそれを手に取り、耳に当てる。

「全ての準備、完了しました。」

綾翔の声が受話器越しに響く。

「それに……彼の存在も、しばらくの間“奴ら”のレーダーから消しました。」

雷善は椅子に深くもたれ、指を組んだ。

彼はすぐに察していた。

綾翔が言っているのは、“南極調査チーム”の最後の生存者——

政府に消される前に、エデンフォールが確保した“彼”のことだ。

「……よくやった。」

雷善は低く頷く。

「なら、次の計画に移るときだ。」

「了解しました。」

そう答えた後、綾翔は一拍置いて続けた。

「……それと、約束通り、“彼女”を巧のそばに残してくれて感謝します。」

雷善の唇に、うっすらと笑みが浮かぶ。

「君の願い通りにしただけだ。」

「ありがとうございます、マスター。」

綾翔は笑い声を交えながら続けた。

「最初に美羅を巧に配属させたあの日から、俺には見えてたんですよ。

あの目に宿っていたもの……“情”か、あるいはそれ以上の何か。

二人が初めて本部で顔を合わせたとき、確信しました。」

雷善は深く息を吐く。

「くだらん。お前は任務に集中しろ。」

「もちろんです。でも……それでも、ありがとうございます、マスター。」

通話が切れ、部屋には再び静寂が戻る。

綾翔は、かつての美羅を誰よりもよく知っていた。

無表情で、無関心で、心がどこか死んでいた妹。

だが、巧を監視対象として任されたあの日から、何かが変わり始めた。

彼女は——生き返ったかのように見えた。

だからこそ、綾翔は雷善に願いを出した。

「任務」という名目で、彼女を巧のそばに置いてほしいと。

そして今——

全ての歯車が、確かに動き出している。

その通話を終えた後、綾翔は英語に切り替えて別のメンバーと連絡を取った。

相手はセレナ・ホワイト。

エデンフォール・アメリカ支部の高官だ。

「日本本部からの確認が取れた。」

綾翔は落ち着いた声で言う。

「一週間後、俺が彼を日本から護送する。

放送はアメリカで行う予定だ。」

「改めて感謝するわ、倉崎。」

セレナの声が返ってくる。

「一週間後に会おう、セレナ。」

そう言って、綾翔は通話を切った。

彼らが語っていたのは、

“南極調査チーム”の最後の要員——地球物理学者、坂本賢司博士のことだった。

政府の目から完全に逃れた状態で、

三ヶ月もの間、博士を安全に保護してきたエデンフォール。

ついに次の段階に進む時が来た。

世界規模の“真実の放送”——

エデンフォールの次なる一手が始まる。