森川萤子は片桐陽向が来るとは思わなかった。しかも、運転手に車で行かせるのではなく、バスに一緒に乗ってきたのだ。
数時間前まで、二人は親密に抱き合って眠っていたのに、今は廊下の両側に座り、まるで水と油のように分かれていた。
森川萤子はもともとバスが出発してから目を閉じて休むつもりだったが、今は隣の山のような圧力に耐えられず、直接目を閉じた。
渡辺佳子はバッグから紫草膏の箱を取り出し、宝物を見せるように森川萤子に言った。「森川秘書、紫草膏があるわ。首の蚊に刺された跡に塗ってあげるわ。午後には必ず消えるから。」
そう言いながら、彼女は指先に紫草膏をつけて森川萤子の首に塗った。清涼感が襲ってきて、森川萤子は急に目を開いた。
彼女は渡辺佳子の純粋で無邪気な目を見て、あれは蚊に刺されたものではないと言いづらかった。
渡辺佳子の指が森川萤子の肌に触れたとき、蚊に刺されたときのような硬い感触はなかった。
彼女は森川萤子の首と耳の根元がだんだん赤くなっていくのを見て、ようやくそれが蚊に刺されたものではないことに気づいた。
彼女自身も顔を真っ赤にして、黙って席に戻った。しばらくして、また近づいてきて、好奇心を持って森川萤子に尋ねた。
「森川秘書、彼氏いるの?」
森川萤子は目を閉じたまま、考えもせずに答えた。「いないわ。」
「でも、首に…」渡辺佳子の言葉が終わる前に、森川萤子に遮られた。「蚊に刺されたのよ。」
彼女の言葉が終わらないうちに、隣から軽い笑い声が聞こえた。まるで彼女の自己欺瞞を笑っているようだった。
森川萤子は目を開けずに、心の中で「何笑ってんのよ」と罵った。
すぐに、車列が出発した。
森川萤子は目を閉じていた。最初は現実から逃げるためだけだったが、バスがゆらゆら揺れて、彼女は本当に眠ってしまった。
安心感を与える白檀の香りが夢の中でずっと漂っていて、森川萤子はぐっすりと眠った。
バスが減速帯で一度跳ねて、森川萤子を夢の中へと投げ込んだ。
彼女が目を開けると、自分がジープに座っていることに気づいた。車の窓の外は広大な砂漠で、車は砂漠を走っていた。
隣には存在感の強い男が座っていた。彼女が顔を向けると、相手の肩甲骨に赤い蠍の刺青が見えた。