あの出来事は、森川記憶が偶然に髙橋綾人に「キス」してしまった6日後に起こった。
その偶然の「キス」が起きた翌日は、髙橋綾人が退院する日だった。田中白は午前10時に病院に来て、髙橋綾人のために上の階から下の階まで走り回り、ほぼ1時間かけてようやく退院手続きを済ませた。
前夜あまり眠れなかった森川記憶は、田中白が提案した一緒に昼食を食べるという誘いを丁重に断り、そのまま家に帰った。
家に帰った後の森川記憶は、相変わらず家に引きこもって外出せず、髙橋綾人が病気で入院し、彼女が病院で付き添いケアした丸10日間のことは、まるで湖に投げ込まれた小さな石ころのように、二人の間に大きな波紋を起こすことはなかった。彼と彼女が別れた後、彼女は髙橋綾人に連絡せず、髙橋綾人も彼女に連絡しなかった。あの出来事はまるで取るに足らない小さな挿話のように、彼と彼女の人生の中であっさりと過ぎ去っていった。