結婚記念日の当日、奥田梨子は一人で婦人科に行くことになった。
病院で、彼女は夫が彼の初恋の人を抱きしめているところを目撃した。
初恋の相手は男の胸に寄りかかり、柔らかい声で言った。「信行、生理痛の診察に付き添ってくれてありがとう」
夫は初恋の彼女のことが心配で、奥田梨子にチョコレートを買いに行くよう命じた。
奥田梨子は突然笑った。手をお腹から離したばかりだが。
ちょうどいい、彼女も別の病院に行って、この子を中絶させるつもりだったし。
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奥田梨子が今回病院に来たのは、お腹の子供を下ろすためだった。
彼女は受付を済ませ、医師の診察を待っていた。
周りには何組かの夫婦が座っていて、妻は妊娠し、夫が付き添っている。
一人で中絶しに来た彼女は、少し寂しそうに見えた。
2ヶ月前、彼女は川木信行の出張に同行した。
当時は酒の席にも参加した。
彼女は酔っ払ったが、朝目覚めると、ホテルのスイートルームには彼女一人だけが残された。
床に服が散らばっていたまま。
彼女の服の他には、彼の白いシャツもそこにあった。
奥田梨子はその時、心が躍っていた。
長い年月を経て、彼はついに彼女の気持ちを受け入れてくれたと。
彼女は本当に本当に彼のことを愛していた。
しかし、その喜びは昨夜、彼によって無残にも打ち砕かれた。
昨夜、彼女は試しに彼に聞いてみた。もし彼女が妊娠したら、どうするつもり?
彼は無関心そうに彼女のお腹を撫で、軽く笑って答えた。「妊娠したら、下ろせばいい。それに、俺が君を妊娠させるはずがない」
なんて率直で冷酷な言葉だろう。
奥田梨子はその時、足の裏から全身に寒気が走るのを感じた。
何があっても、彼女は5年間も彼の秘書を務めてきたし、何年も彼を愛してきた。
しかも2年間は彼の妻だった。
例えペットの犬を飼っても、少しは情が湧くものではないか?
思いがけないことに、そんな恋に応えてくれたのは、そんな冷たい言葉だった。
昨夜のことを思い出すと、奥田梨子は淡々と嘲笑を浮かべた。
彼女の唇の嘲笑がまだ消えないうちに、自分の夫が一人の女性を抱きかかえたまま、大股でこちらに歩いてくるのを見かけた。
奥田梨子の体は急に硬直した。
彼女は反射的に頭を下げた。
「あれって奥田秘書じゃない?」涼宮陽子はマスクをつけているが、驚いて川木信行の服を引っ張り、彼に近づくよう促した。「奥田秘書に少し話したいわ」
「医者に診てもらってからだ」
男の声は普段の冷たさがなく、むしろ優しさが加わった。
「奥田秘書とはずっと会ってないから、ちょっと話したいだけよ」
涼宮陽子は潤んだ瞳を瞬き、小さな手で男の胸をつついた。「私はただ生理痛と低血糖で倒れただけだから、そんなの心配しすぎだって」
奥田梨子は誰かが彼女の前に立っていることに気づいた。
彼女は顔を上げてみた。
するとそこには彼女の上司が立っている。
名目上の夫でもあるが。
彼が別の女性を抱きかかえ、堂々と彼女の前に立っている。
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奥田梨子の頭は一瞬混乱した。
「奥田秘書、久しぶり、ますます綺麗になったわね」
涼宮陽子の言葉は喜びに満ちている。
彼女はいつ…帰国したのだろう。
涼宮陽子とは、川木信行の初恋相手だった元彼女だ。
奥田梨子は口元を引きつらせたが、笑えなかった。彼女は立ち上がり、丁寧に挨拶した。「本当に久しぶりでしたね」
涼宮陽子は唇を噛み、軽く可愛らしく笑った。「奥田秘書、この数年間信行の面倒を見てくれてありがとう。彼の性格、なかなか悪いから、耐えられるのはあなただけよ」
信行、信行とか、あの親しげな口調は本当に馴れ馴れしい。
この二人は4年前に別れたはずなのに。
奥田梨子は淡く笑った。「それほどでもないわ。川木財団の給料は高いですし」
看護師が車椅子を押してきた。
川木信行は優しく涼宮陽子を車椅子に座らせた。
男の優しさって、相手によって変わるものなのだ。
奥田梨子は赤い唇を噛み、心の中の苦しみに耐えている。
涼宮陽子は頭を上げて川木信行に礼を言ってから、また奥田梨子を見た。「奥田秘書、診察を待っているの?」
「いいえ、もう診察は終わりました。今帰るところです」
涼宮陽子は甘えるように男の袖を引き、彼の手に寄りかかり、柔らかい声で甘えた。「急にチョコレートが食べたくなったわ、本当に食べたいな」
「まずは医者に診てもらおう」川木信行の言葉はやや諦めたように聞こえた。彼は淡々と奥田梨子を見て口を開いた。「奥田秘書、チョコレートを一箱買ってきてくれないか。後で5階に持ってきてほしい」
奥田梨子は全身が冷え、こんな自分のことを笑いたくなってきた。
彼は自分の妻に、元彼女のためにチョコレートを買いに行かせたの?
奥田梨子は突然失笑した。
彼女は別の病院で中絶することにした。
涼宮陽子は男の腕を軽く叩き、困ったような顔を彼に見せた。「もう、奥田秘書だって、体調が悪いから病院に来たのでしょう。チョコレートを買いに行かせるなんて」
彼は冷淡に反論した。「これも彼女の仕事だ」
そう、これも秘書の仕事だ。
奥田梨子はその返事を聞いて、目を伏せ、瞳に一瞬よぎった暗さを隠した。
彼女の骨の髄までの誇りは、自分があまりにも惨めに負けることを許さなかった。だから彼女は微笑んだ。「涼宮さん、私は秘書ですから、これは確かに私の仕事のうちです」
彼女は二人に頷き、バッグをきつく握りしめ、素早く立ち去った。
*
奥田梨子は病院近くの大型スーパーでチョコレートを一箱買った。
彼女は病院に戻り、エレベーターで5階に向かった。
エレベーターのドアがディンと開いた。
彼女は一目で、エレベーターの外で抱き合う二人を見かけた。
涼宮陽子は川木信行の腰に腕を回している。
二人はそのまま口づけをしている。
奥田梨子の胃がひっくり返りそうになったが、彼女は手で青ざめた唇を押さえ、エレベーター内の鏡につかまり、吐き気を催した。
その瞬間、三人の目が合った。
エレベーターのドアが再び閉まり、奥田梨子は涙を浮かべた目で、まだエレベーター内で吐き気を催し続けている。
幸いにも、この時のエレベーター内には彼女しか誰もいない。
涼宮陽子は驚いて顔で閉まったエレベーターを見つめ、「奥田秘書がどうしたの?」と聞いた。
彼女は吐き気の音が聞こえた。
川木信行の冷たい瞳は一層深く見えた。昨夜奥田梨子が突然聞いた子供の質問を思い出し、彼は考え込んだ。
奥田梨子はそのチョコレートを看護師に渡し、5階の川木信行に届けるよう頼んだ。
彼女は車で家に帰り、最初にしたことは荷物をまとめることだった。明日は引っ越す予定だ。
2年間の契約結婚は、やはり一撃で崩れた。
夢から覚める時が来たのだ。
2年前、川木お婆さんは生きているうちに川木信行の結婚現場が見たいと言い出した。
川木信行はその時、奥田梨子に結婚前の財産契約を結んで、契約結婚しないかと尋ねた。
彼は報酬として彼女にお金を追加するまで提案した。
奥田梨子はもともと彼に密かに惚れていた。
しかもその時は、彼女もたくさんのお金が必要だったので、この契約に同意した。
契約結婚とはいえ、彼女は本当に心を込めてこの結婚生活を営んできた。
彼女は真心が真心を引き寄せると思っていた。
しかし、涼宮陽子の今回の帰国で、そんな考えは滑稽なものになってしまった。
真心が真心を引き寄せるなんて、ただのおとぎ話だ。
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夜。
彼女は彼が帰ってくるのを待っていた。
彼女は冷静に彼を待ち、帰ってきたら決着をつけようと思った。
彼女は夜6時から8時まで待ち、その間に何度か彼に電話をかけたが、誰も出なかった。
川木信行は今夜帰ってこなかった。
彼女は義理の妹である川木敏子から、涼宮陽子のSNSの写真を転送された。
写真の中の男、つまり彼女の夫は、涼宮陽子の髪を乾かしていた。
その男はバスローブを着ていた。
こんな夜更けに、バスローブを着て、元彼女の髪を乾かしているなんて。
奥田梨子はその写真をじっと見つめてから、少し痛む目をまばたきし、無言で笑った。
彼女は無表情のまま引き出しから2年前に署名した結婚契約書を取り出した。
すると視線は最後の契約条項に落ちた。
【5年以内に、自ら離婚を申し出た者は、相手に40億円の違約金を支払う必要がある】
当時結婚した時、奥田梨子は6億円の結納金を要求したが、川木信行は直接20億円を彼女に振り込んだ。
彼女は自分の資金を計算してみた。弟の化学療法の費用を差し引いて、まだ1億8000万円残っている。
もし彼女が離婚を申し出せば、彼に40億円の違約金を支払う余裕はない。
奥田梨子は顔をこすり、契約書をしまった後、服を着替え、鍵を持って出かけた。
*
深谷市にはたくさんのバーがある。
奥田梨子は以前このような場所に来たことがなかった。
今日の彼女はここでお酒を注文したが、結局飲まなかった。お腹の子供のことを考え、結局グラスを置いた。
奥田梨子は口元を引きつらせ、お酒を飲んでストレスを発散しようとしたが、そんな機会すら掴めなかった。
彼女はバーを出て、鼻をすすり、馬鹿みたいに涙が流れ落ちた。
一人を何年も愛してきて、結局は空しく終わった。
前方に空車表示のタクシーがあり、ドアも開いているままだ。奥田梨子はその車に乗り込み、涙声で言った。「運転手さん、緑川マンションまでお願いします」
運転手はバックミラーから後部座席にいる男女を見た。カップルによる痴話喧嘩だったのかと思った。
しかしこの運転手は実に親切な人なので、ついて言ってしまった。「男性は女性に優しくするべきですよ」
その後運転手は車を発進させた。
奥田梨子もようやく我に返り、顔を横に向けると、涙で赤くなった目で、隣に座っている男性をぼんやりと見えた。
この男性はマスクをしており、彼女には顔がはっきり見えなかった。
「運転手さん、止めてください。すみませんが、間違った車に乗ってしまいました」
「……」
運転手は車を路肩に停め、奥田梨子は何度も謝り、車を降りた。
彼女は後部座席の男性を一目見た。
彼もちょうど彼女を見ていた。
**
川木信行が服を着替えるために帰ってきたのは翌日の朝だった。
彼が帰ってきたとき、リビングにいくつかの荷物箱が置かれているのを目にした。
「居候が来てるのか?」彼はシャツのボタンを外し、かすれた声で尋ねた。
「私の荷物よ」奥田梨子の視線は彼の白いシャツの襟元にある口紅の跡に落ち、指で指し示した。「口紅、残ってるよ」
彼は襟を引っ張って見ると、確かに口紅の跡があった。
川木信行の顔に一瞬の不自然さが浮かんだ。
しかし彼はすぐに冷たい表情を取り戻した。
説明すらしようとしない。
やはり。
奥田梨子はつい失笑した。
川木信行は眉をひそめた。「何が可笑しい?」
「何でもないわ。朝、面白いことを見ただけ。先に会社に行ってくるわね」
奥田梨子はバッグを持ち、出かける時には無意識にフラットシューズに履き替えた。
川木信行は階段を上がり、寝室に戻った。
彼は服を脱ぎ、バスルームに行ったが、そこに彼の着替えが用意されていないことに気づいた。
以前なら彼がシャワーを浴びる時、奥田梨子はいつも彼の服を用意してくれる。
彼は淡々とした表情でバスルームを出た。
彼は奥田梨子に電話をかけながら、クローゼットに向かった。「一つ聞き忘れてた」
彼はクローゼットの引き出しを開けた。
「奥田梨子、君って、もしかして妊娠してるのか?」
男の冷たい声が電話を通して彼女の耳に入り、彼女の心臓を激しく鼓動させた。