血は嘘をつかない、だが忘れる (2)

隠し通路の先には、螺旋状に下る細い階段が続いていた。レンは言われずとも懐中電灯を取り出し、下方へと光を向けた。

「この下にいるのが…神様か?」レンは警戒しながら尋ねた。

「は? まさか、違うよ」紅が肩をすくめるように笑った。「そんなわけないじゃん。ここにあるのは、もう一つの神社――本物の方。土地神さまがちゃんと見てる、ね」

まるで「百聞は一見に如かず」とでも言うように、紅は身をかがめ、頭をぶつけないようにしながら階段を下り始めた。

レンはしばしその場に留まり、紅の姿が曲がり角の先に消えていくのを見届けた。あたりを見渡すと、いつの間にか場の空気が不気味なほど静まり返っているのに気づいた。

もう深夜に近い時間ではあったが、何かが妙だった。

見張りもおらず、人の気配すら感じられなかった。そう思った瞬間――

蝉も、鈴虫も、虫の声がすべて消えていた。あたりは完全に、異常なほどの沈黙に包まれていた。

「…!」

これ以上遅れてはいけないと判断し、レンはすぐに紅を追った。懐中電灯で足元を照らしながら、素早く階段を下っていく。段数自体はそれほど多くなかった。

二階分ほど降りた先には、まるで手入れされていない、洞窟のような通路が続いていた。

「こっちだよ。ついてきて」

紅は振り返らずに、確信に満ちた足取りで前へ進んでいった。レンにも声はしっかり届いていたが、彼の足は一瞬だけ止まった。

「こんな場所が神社の下に...?」

レンは周囲を見渡しながら呟いた。

洞窟のように見えるその通路は、人工ではなく石灰岩で形成された天然のもののようだった。だが、壁に触れると、静電気のような奇妙な感触が指先に走った。

「なにしてんの? 早く来なよ」

紅はレンが来ていないことに気づき、振り返った。「本当の時雨神社――闇隠(やみがくれ)神社は、この先だよ」

「ああ…悪い」

我に返ったレンは、すぐに走って追いついた。

懐中電灯が微かに揺れながら、前方を照らした。

「...?」

紅に近づくにつれ、壁の材質が急に変化していった。石灰岩の壁が、つるりとした黒曜石のような材質へと切り替わっていたのだ。

それは自然のものとは思えないほど滑らかで、接合部も継ぎ目も存在しない、完全な一体構造。四方すべてが漆黒の石で形成された、真っ直ぐな一本道だった。

その黒い表面には、無数の文様が刻まれていた。古代のものなのか、レンにはまったく読めない、異質な文字列だった。

不気味ではあったが、レンは紅の背中を追い、さらに進んだ。

百メートルほど先へ進むと、空気の質が再び変化した。乾いた空気から、じっとりと湿気を帯びた冷たい空間へと移っていった。壁には文字の上からお札がびっしりと貼られていた。

参拝者など来るはずもないこの空間の壁際には、様々な色の蝋燭が並び、静かに燃えていた。それだけでも十分に不気味だった。

レンの目には、ここは「祀る」ための場所ではなく、「封じる」ための空間に見えた。その直感が、胸の奥を強く締めつけた。

「…着いたよ」

レンが考える暇もなく、紅が立ち止まった。

レンも歩みを止め、懐中電灯を前へ向けた。その先には、小さな祠があった。自分の背丈ほどの、高くもない質素な造り。だが、レンにはすぐに分かった。

『こっちが本物か…』

上の立派な神社よりも遥かに、強い“気”がここにはあった。密度の高い、圧迫感すらある存在感。あの石灰岩に触れた時と同じ力が、ここには漂っていた。

その力の源は、祠の中心に据えられた像だった。

黒翡翠で作られたその像は、かすかに光を反射していた。手足は異様に長く、人間の比ではなかった。両手は膝に置かれ、指は広げられ、緊張感すら漂わせていた。

顔はヴェールのようなフードで覆われ、その奥にある二つの黒曜石の円盤が、まるで鏡のようにこちらを映していた。

首には石の勾玉が数珠状にかけられており、いくつかは割れていた。ひとつは欠けてさえいた。

その像の前には、清らかな水を張った銅製の水盤が置かれていた。

「こいつがこの土地の神様…であり、ヴェールドの神でもあるの」

紅は説明した。「私たちは“観察するもの”って呼んでる」

「観察する…もの…」

レンはその名を繰り返しながら、像を見つめた。だが、どれだけ見ても、その像が何かを「観察」しているようには見えなかった。

「それで?」レンは現実に戻るように問いかけた。「ここに連れてきた目的は?」

紅は、レンの緊張を見透かしたように、くすりと笑った。

「なに? こんなジメジメした暗い場所に連れてきて、いいことでもあると思ったの?」

おどけるように笑いながらも、その目は真剣だった。

レンは何も言わず、じっと返答を待った。

「…ちっ、少しくらい照れてよ」

紅はふくれっ面を見せつつも、やがて真顔に戻った。

「アンタ、怖いんでしょ? 自分のせいで皆が死んでるんじゃないかって。だから、今どれだけ“深み”に足を踏み入れたかを確かめに来たの。簡単な儀式でね」

「…!」

レンの息が詰まった。

吉野。火柳。そして、今度はアイバまで。

彼のせいで失われた命──直接的にせよ、間接的にせよ。その最期の光景が、今も脳裏に焼きついている。

「どうすればいい?」

声には、迷いのない覚悟がにじんでいた。

その姿に、紅はやわらかく微笑んだ。

「簡単だよ。あの水盤に、自分の血を落とすだけ」

レンは一切躊躇しなかった。疑わしい指示ではあったが、恐れずに前へ進んだ。

懐中電灯を口にくわえて両手を空け、ナイフを抜いて左手の親指を軽く切った。まるで痛みを感じていないかのような手際だった。

刃を収めた後、傷口から数滴の血を水面に垂らした。

血は一瞬、水面に曇りをもたらしたが──次の瞬間、すっと溶けて消えた。

「…」

レンは静かに手を引き、結果を待った。紅も隣に立ち、黙って見守っていた。

やがて──変化が起きた。

消えたはずの血が再び水面に浮かび、今度は文字になった。

【Null... Witness... 20...】

「二十、か……」

紅が小さく息をつき、微かに眉をひそめた。「まだ人間ではあるけど、思ったより進行してるね」

「そうか……」

「ええ」紅は頷いた。「でも、今の段階でも“狩る者たち”はアンタを見逃さない。アンタの近くにいる誰かもね」

「……なるほど」

沈黙が訪れた。だが紅は、軽く手を叩き、明るい声を出した。

「ま、とりあえず状態が分かったところで……そろそろ戻ろっか?」

彼女は小首をかしげ、ぽんとお腹を叩いた。「お腹すいちゃったし〜」

レンは何も言わず、踵を返して歩き出した。

だが――その背に、寒気が這い上がった。

ピタリと足を止め、振り返る。

“観察するもの”の像は、依然として動いていなかった。膝の上に手を置き、ヴェールをかぶったまま静かに座っている。

だが……その黒曜石の瞳が。

さっきまでどこにも焦点を合わせていなかったはずのそれが──

今は、まっすぐに“自分”を見ているように感じられた。