血は嘘をつかない、だが忘れる (1)

次の瞬間、ぞっとするような悪寒が背筋を這い上がり、レンは通話を切った。すぐに──だが慎重に──もう一度部屋の中を見回した。

しかし、驚いたことに…何もなかった。

相変わらずの、薄暗く不気味なアイバの作業場。物がなくなったり、動かされたり、変わった形跡は一切なかった。

それでも、レンの心はざわついていた。まるで部屋の隅から“何か”がこちらを見ているような気配。自分には見えないが、向こうには見えているような…そんな感覚だった。

レンはすぐに作業場の片付けに取りかかった。アイバの使っていたPCをすべてシャットダウンし、「証拠」が何一つ残らないように処理してから、部屋を後にした。警察が入っても、何も出てこないように。

階段を上がる頃には、すでに拳銃を抜いて構えていた。アイバは「出入り口のロビー」で“襲われた”のだ。警戒するのは当然だった。

隠し通路の隙間から、部屋をそっと覗いた。

そこには見慣れた木の床、二階へと続く簡素な階段、そして大量に積まれたゴミ袋。いつもの光景だった。

不気味な鏡など、どこにもなかった。

「現実のまま…か。珍しいな…」

小さく呟きながら、レンは違和感を覚えた。通常なら、もうすでに「裏側」に引き込まれていてもおかしくない時間帯だった。

一歩、また一歩と、慎重に進んだ。銃を手放さず、部屋中を警戒しながら出口を目指した。

何事もなく、レンは玄関に到着し、ドアノブを捻った。ゆっくりと外に出る──一歩ずつ、音を立てぬように。

「…また一人、失ったのか?」

「っ...!」

突然の声に、レンの心臓が跳ね上がった。即座に振り向き、声の主へと銃を向けて引き金を引こうとした──

「やめときな。ここで撃てば近所中にバレるよ。そんな騒ぎ、望んでないでしょ?」

その手は、レンの指の動きを簡単に制した。信じられないほどの力で。

次の瞬間、レンはその声と顔を認識した。安堵が胸に広がった──もっとも、それと同時に苛立ちも湧いてきた。

「紅か…驚かすなよ…」深く息を吐きながら、レンはその存在に慣れつつある自分を自覚した。

「ごめんごめん。そんなに驚くとは思わなかったよ」

紅は笑みを浮かべたまま、金紅色の瞳を細めた。鋭い牙がちらりと覗いていた。「でも今日はただ話しに来たんじゃない。レン、ちょっと付き合ってほしい場所があるんだ」

「…」

その言葉に含まれたトーンの変化──遊びから真剣へ──に、レンは眉をひそめた。どうやら、デートや気まぐれな外出ではなさそうだった。

「…わかった」

頷くと、レンは短く答えた。「案内してくれ」

ーーー

二人はレンの車を使って東京を横断し、郊外へ向かった。ただし、運転していたのはレンではなく、紅だった。

最初は他人に運転を任せることに不安を感じたレンだったが、紅のハンドルさばきを見て──それがレース並のスピードであっても──すぐにその不安は吹き飛んだ。レン自身より遥かに上手だった。

やがて、郊外にある「時雨神社」に到着した。長い石段が本殿へと続き、朱色の鳥居がその道を彩っていた。その神聖で強い気配は、そこがただの観光地ではないことを物語っていた。

「…入っても大丈夫なのか?」

レンは少しだけ気になって尋ねた。

見た目こそ人間に見えたが──紅は違っていた。

「何それ? 私がアンタと違うからって、神に祈っちゃダメなの? 入った瞬間に燃え尽きるとか思ってんの?」

紅は皮肉たっぷりに笑った。「ホラー映画の見過ぎだよ、レン」

そう言うと、彼女はさっさと百段を超える石段を上がり始めた。何の支障もなさそうだった。

一歩遅れて、レンも後を追った…が、その位置取りのせいで、彼の視界は紅の背後を真正面に捉える形となった。彼女のワンピースは膝下丈で、少し見上げれば中が見えてしまいそうだった。

とはいえ、レンは暗殺者──薄いレースごときで動揺するほど軟ではなかった。だが一応、視線を逸らす代わりに歩幅を早め、横に並ぶようにした。

「せっかくご褒美用意してたのに…」

紅が囁くように呟いた。

「やっぱり狙ってたんだな」

レンはため息をつき、横目で彼女を見た。「なら代わりに、ヴェールドとの縁の切り方を教えてくれ」

「…それだけは無理」

「…」

彼女が言ったのは“しない”ではなく“できない”。つまり──方法を知っているということ。レンには、それだけで十分だった。

四百四十四段の階段を登りきると、ようやく頂上に辿り着いた。古びてはいたが、どこか威厳のある神社。構造は簡素で、賽銭箱と鈴の紐が垂れ下がっているだけ。神像などは見当たらなかった。

「ついてきて」

紅は迷うことなく前へと進んだ。

賽銭箱を無視し、そのまま拝殿の扉を開けて中へと入っていった。その様子を見ていたレンは、なんとも言えない不安を感じた。

無断で“神域”に踏み込むのは、あまり気が進まなかった。せめてもの礼儀として、レンは神社の作法に則り、参拝を行った。

五百円玉を賽銭箱に投げ入れ、鈴を鳴らし、二礼二拍手一礼。特に願い事はせず、この場所の“主”に一言、通行の許可を願っただけだった。

「ムダだよ」

紅が中からくすりと笑った。「ここは空っぽ。ただの表向きさ」

「…は?」

時雨神社は有名な場所だった。今は夜とはいえ、昼間は何千人と参拝客が訪れる。そんな場所が「空っぽ」だなんて──

「そういう意味じゃないんだよ」

紅は首を振り、まるでレンの思考を読んだかのように言った。「この神社には“神”がいない。…本物は──」

彼女は畳を蹴り上げた。そこには小さな隠し通路があった。暖かな黄色の灯りの中、埃が舞い上がった。彼女はそのトラップドアを開き、レンの方を振り返って微笑んだ。

「──下にいるのさ」