逢魔時(おうまがとき)。
太陽がちょうど地平線の向こうへ沈んだ瞬間──昼と夜の境界線。超常の力が最も強まるとされる時間帯だった。
この奇妙な現象を、レンジはレンのせいだとは思わなかった。あの時はそのせいだと考えていた。
そして、辛辣な言葉を吐きながらも、レンジはすぐにレンを追い出すことはなかった。代わりに、「ヴェールドの世界」にこれ以上引き込まれないための対処法──つまり、レンが取るべきいくつかの予防策について語り出した。
その語り口には、妙な説得力があった。まるでレンジ自身がそれらを実際に用いたかのように…いや、かつて本当にヴェールドの手から逃れた経験がある者のように感じられた。
だが、結局のところ彼が与えられるのは「助言」だけだった。それ以上の手助けはできないと、彼は悟った。
謎の電話の話題には触れず、その会話が終わった後──レンはバーを出て、歩き始めた。彼の車は二ブロック先の駐車場に停めてあったため、少し歩かなければならなかった。
歩いている途中、彼はふと足を止め、夜空を見上げた。
高層ビルと人工の光に囲まれ、星はほとんど見えなかった。いや、それ以前に、分厚い雲に覆われており、かすかに覗くはずの星さえ見えなかった。
視界に届くのは、近くの街灯の強い光だけ。その光が、黄色かった不気味な輝きとなってレンの目に映った。
レンは目を閉じ、遠くの喧騒に耳を澄ませた。車の走行音、歩行者の話し声、足音のリズム──
「…あれ?」
突然、すべての音が消えた。
あまりに異様で、レンはすぐさま目を開き、周囲を確認した。
見た目は何も変わっていなかった──街灯も、ほぼ無人の路地も、雲に覆われた空も。しかし、音だけが──生命の気配だけが、完全に消えていた。
「疲れてるのかもな…」
そう呟き、目元をこすった。
ストレスによる一時的な難聴という可能性もある。そう自分に言い聞かせて、納得しようとした。
だが、どれほど否定しようとしても──レンにはわかっていた。
また、起きたのだ。
街灯がちらつき、歪み出した。まるでバグったゲームのように。形、色、輪郭が断続的に崩れ、そのたびにレンは息を止めた。
そのちらつきの合間に、彼は街灯の下に「何か」が立っているのを見た気がした。ほんの一瞬──一秒にも満たない時間だったが、そこには杖をついた老婆の姿があったように見えた。
それを目にした瞬間、レンは確信した。
自分は再び「あちら側」に入り込んでしまったのだと。
「落ち着け…」
自らに言い聞かせるように呟いた。
「レンジが言ってたことを思い出せ…」
レンジはこう言っていた。異変が起きたとき、一番良いのは“それを認識しないこと”だと。異常を認めれば認めるほど、それは現実に根を下ろしてしまうのだと。
「ただ…真っ直ぐ歩けばいい…」
そう呟きながら、レンは前方に視線を固定した。
ちらつきは激しくなり、街灯の下にいた老婆の姿は──影よりも濃く、暗くなっていった。
だが、レンは歩みを止めなかった。視線も逸らさず、歩調も乱さなかった。
『これは幻だ。これは幻だ。これは幻だ…』
心の中で繰り返し唱えながら、すべてを無視し続けた。
ちらつく光の下、老婆の「像」がある地点に差しかかったとき──
コツ…
彼はそのまま歩き抜けた。何も起きなかった。
ただ通り過ぎただけ。何の異変も起きなかった。レンジの護符は、確かに効果を発揮していた。
「ミエタンダロォ...?」
バンッ!
老婆の顔が、レンの目の前に突如現れた。黒い空洞のような目、灰のように白い肌、黄色く歪んだ歯。それはただの“顔”──身体はなく、影の中から這い出してきたような存在だった。
「…」
だが、レンは反応しなかった。そのまま歩き続けた。表情一つ変えずに。まるでそこに“それ”が存在していないかのように。目も動かさず、一切の視線を逸らさず。
内心では、すでに限界だった。
心拍数は普段の二倍、いや三倍に跳ね上がっていた。思考はぐるぐると回り、護符が効かなかった時の対処法をすでにシミュレーションしていた。肺は硬直し、呼吸すら忘れていた。
ただ、歩き続けた。顔がその幽霊のような存在を通り抜けると、それは煙のように消えていった。不気味だったのは、その顔が“温かかった”ことだった。現実のような、嫌な質感だった。
それでも、レンは立ち止まらなかった。歩き続けた。
すると、徐々に音が戻ってきた。
街の音、車の音、人の声、足音──すべてが戻ってきた。
レンがため息を吐いた。今、自分は「あちら側」から抜け出せたのだと理解した。レンジの護符のおかげだった。
だが、もしこれをもう一度経験したいかと聞かれたら──答えは即答で「ノー」だった。
歩き続けるうちに、彼は駐車場に近づいた。ポケットに手を入れ、車の鍵を探ろうとした、そのとき──
ブッ...!
ポケットの中で、スマホが震えた。メッセージの着信だった。
レンはすぐに取り出した。今では彼の番号を知っている人間は限られていた。そして、その中で生きているのは二人だけ。
「アイバ...?」
眉をひそめ、レンはメッセージを開いた。
【ごめんなさい、レン様。街を出ます。】
短い一文だった──だが、それだけで全てを物語っていた。別れてからわずかな間に、アイバに何かが起こったのだ。
「くそっ!」
レンは一秒も無駄にしなかった。
車に飛び乗り、キーを回し、エンジンを唸らせた。
アクセルを踏み込むと同時に、タイヤが悲鳴を上げて路面を蹴った。
アイバの家は遠かった。全速力で車を飛ばしても、三十分はかかる。長すぎた。そして、辿り着く頃に何が待っているのか──レンはすでに最悪を覚悟していた。
車を急停止させ、半回転して停めると、手ブレーキを引き、飛び降りて門を駆け抜け、玄関へ突進した。
ピンポンピンポンピンポン──!
インターホンを連打し、手のひらでドアを叩いた。「アイバ!開けろ!」
十秒経過。反応なし。
レンの顔が歪んだ。一歩下がり、足を振り上げ──ヤクザ式の全力キックを放った。
バギィッ!
ドアが内側へ破裂するように開いた。
「アイバ!」
叫びながら、地下室への入口に駆け寄った──すでに開いていた。
階段を一気に下り、地下へ到達する。機械の駆動音が響き、冷却システムの風が彼の身体を撫でた。
だが、アイバの姿はなかった。
「間に合わなかったのか…」
レンは唇を噛み締めた。
そのとき──彼の目がコンソールを捉えた。
アイバはあちこちに監視カメラを設置していた。レンはメインモニターに最新の映像を表示させた。
録画は32分前のものだった。小さなバッグを手に持ったアイバが、地下から急いで飛び出していく。顔は青白く、息も絶え絶え。まるで“何か”から逃げているようだった。
そして──玄関近くの全身鏡の前を通った瞬間、鏡の中から“手”が伸びてきた。
アイバはそのまま、鏡の中に引きずり込まれた。
鏡は、蜃気楼のように──すぐに消えた。
「…」
レンにはわかっていた。
また、間に合わなかったのだ。
自分が引き込んだせいで、またひとつ、命が失われた。
ブッ。ブッ。
電話の着信音。
幽霊のように無表情のまま、レンはそれを取り、耳に当てた。
「もう、出ていきませんよ、レン。」
声を聞いた瞬間、レンの肌に戦慄が走った。アイバの声だった。さっき、鏡の中に吸い込まれたばかりの──あのアイバの。
だがその声は…違っていた。
平坦で、機械的で、感情のない声。まるで「アイバになりすまそうとしている何か」のようだった。
「まだ、ここにいますよ、レン。」
その“偽アイバ”は続けた。
「ここに来てください、レン。」
その言い方が、レンの全身を緊張させた。