老人の苦悩

レンは相羽のことが気がかりだったが、今は後にするしかなかった。

「俺一人のほうが安全でしょう、レン様がいるよりは。」

そう言ってレンを送り出した相羽の言葉が、レンの胸に重くのしかかっていた。

分析の結果、「異常」の中心にいるのは自分──斬崎レンだという結論に至った以上、それも無理はない。相羽としては、"中心"から距離を取ったほうが安全だと考えるのも当然だった。

だが、それでもレンは、ただ相羽のもとを離れるだけでは十分とは思えなかった。

──あのときの吉野のように。

──あるいは、火柳(かがり)のように。

どちらも、レンが近くにいなかったときに、取り返しのつかないことが起きていた。

とはいえ、相羽は自信満々に「自分は大丈夫」と断言していた。

彼はすでに、異常存在への"対抗手段"を準備していると言っていたのだ。鼻血が漆黒だった理由も、その対策とやらの中身も──レンはあえて聞かなかった。

車を運転しながら、レンはスマホを取り出し、ある番号を押した。それはスピードダイヤルに登録されている番号だった。

コール音が二度鳴ったあと、渋い男の声が応答した。

「…ああ?」

レンは回りくどい前置きなしに、単刀直入に告げた。「会いたい」

「了解だ。いつもの場所で、10分後な。」

理由を尋ねることもなく、男は即座に時間と場所を指定した。そして電話はすぐに切られた。会話は簡潔かつ無駄がない──盗聴を警戒してのことだった。

だが、ほんの数語を交わしただけで、すでに打ち合わせは成立していた。

レンは無言のまま、車を走らせた。鋭く目を細めながら。

また誰かを巻き込もうとしている。だが、もう他に手は残されていなかった。今回ばかりは、自分一人ではどうにもならないと悟っていた。

──あの男だけが、こういう"件"に詳しいのだ。

ーーー

数分後、ある地下バーの個室。

防音が施されたその部屋には、長年秘密裏の会話が交わされてきた空気が漂っていた。

中には二人の男がいた。

一人は、チャコールグレーのスーツを身にまとい、髪は寝癖がついたまま。目の前にある料理には一切手をつけず、ただ睨むように見つめている。斬崎レン。

そしてもう一人は、いかにも"裏の仕事"に通じていそうな雰囲気を漂わせた男。年の頃は四十代前半。室内にもかかわらずサングラスをかけ、短めのリーゼントという時代錯誤な髪型。黒髪のこめかみから首、そして腕にかけて、龍や虎の入れ墨がびっしりと刻まれていた。

その風貌が示すとおり、彼は元・極道。今ではレンと同じく、吉野の仲介で仕事を請け負う殺し屋だった。

「聞いたぜ。吉野の件…ショックだっただろう。お前ら、親子同然だったじゃねぇか。」

沈黙の後、ようやく男──柴(しば)蓮司( れんじ)が口を開いた。

「…いや。」

レンはため息をつきながら、首を横に振った。

なぜか他の殺し屋たちの間ではそのような噂が立っていたが、レン自身は一度たりとも吉野を父親のように思ったことはなかった。

「でも、今はそれどころじゃない。」

話を戻すように、レンが続けた。「火柳も殺された。相羽も、おそらく危ない。」

レンジの眉がわずかに動き、警戒の色がその顔に浮かぶ。

「なんだ?どっかの組織にでもケンカ売ったのか?」

「いや。もっとヤバい連中かもしれない。」レンは、迷いなくその名を口にした。「“ヴェールド”って言葉、聞いたことあるか?」

「──てめぇ...!」

次の瞬間、レンジは勢いよく席を立ち、レンの口を手で塞いだ。

「その呪いの単語を、何の警戒もなく口にしやがって…死にてぇのか、お前!」

案の定、レンジは“ヴェールド”を知っていた。それも、ただの噂話ではなく、実際に関わったことがある者の反応だった。

レンはレンジの手をそっと押しのける。

「力を貸してほしい。俺一人じゃ、相羽を守れない。全部の異常が…俺を中心に集まってる。」

「…クソっ、お前…呪われたのか?」

レンジは手を払い、まるで穢れでも触ったように指先を振った。

だがレンに答えはなかった。いつ、どこで、なぜ自分が"中心"になったのかすら、彼自身にもわからなかったのだ。

ただ一つだけ確かなのは──すべての始まりは、あの失敗した暗殺任務からだった。

「はあ…」

レンジはソファに沈み、煙を吐きながら天井を見つめた。

「アイツらの名前を聞くだけで寒気がする…知らねぇのか?“名には力がある”って。声に出した時点で、すでにあいつらに片足を突っ込んでるんだよ。」

珍しく、レンジは口数が多かった。

「どこまで首突っ込んだか知らねぇが──今すぐ引き返せ。アイツらに関わって得るものなんざ、何もねぇ。」

彼は眉間に皺を寄せながら、さらに言葉を続ける。

「あれはな、人の歴史よりもずっと昔から、この世の“影”に生きてきた存在だ。妖怪でも亡霊でもねぇ。“人間”が名前を与える前から、そこにいた。」

「奴らはな、勝手に“机の下”を覗き込んでくる奴が大嫌いなんだよ──」

回りくどい表現に、レンは言い返そうと口を開きかけた。

──が、その時。けたたましい着信音が会話を遮った。

「…俺のだ。」

レンジがポケットからスマホを取り出し、通話ボタンを押した。同時に、いつもの癖で録音も開始する。

「…俺だ。誰だ?」

返事はなかった。

代わりに、息を荒げるような“呼吸音”だけが聞こえてきた。あまりにも不自然で、重たく不気味な息遣いだった。

いたずら電話か…?とレンジは首をひねりつつ、しばらく待っていたが、相手が話し出すことはなかった。

やがて彼は通話を切り、ぽつりと呟いた。

「…変だな。今、なんか…背筋がぞわってした…」

レンの視線が、レンジの腕に移る。刺青のある肌が、見事に鳥肌を立てていた。

だが、当の本人はどこか他人事のような顔で、録音を再生した。

音声は短かった。

だが、再生されたその瞬間──レンもレンジも、全身が凍りついた。

録音に残っていたのは、レンジの発した一言のあとに続く、ノイズ混じりの不明瞭な音声。

言葉にならない音の羅列。わざと歪められたような、聞き取り不能の低音。

──だが、最大の違和感はそこではなかった。

その声が、“他人”のものではなかったのだ。

いや、むしろ…"電話の向こうにいたのがレンジ自身"にしか聞こえなかった。

まるで彼が、自分自身の発したことのない言葉を、別の場所で口にしていたかのように。

音声が終わると同時に、レンジの手からスマホが滑り落ちそうになる。

顔を青ざめさせた彼が、震える声で言った。

「…お前…マジで"中心"になってやがるじゃねぇか、このクソ野郎…それを、ここにまで持ってきやがったのかよ…!」