レンが目を覚ましたとき、そこはホテルの一室だった。
周囲を見渡してみたが、人の気配は一切なかった。静まり返った部屋の中、ベッドの真ん中には、上半身裸の自分がただ一人、横たわっているだけだった。
死の淵に立たされたときの記憶が、断片的にではあるが少しずつ戻ってくる。そして彼が最初に確認したのは、自分が負傷した脇腹だった。しかし、そこにはもはや傷一つ残っていなかった。つまり──あのときの出来事は幻ではなかったのだ。紅は実際に彼を助け、致命傷だったはずの傷を癒してくれた。
「次に会ったときは、借りを返さないとな…」
そう小さく呟き、彼はゆっくりと立ち上がった。
レンは、たとえ重傷を負っていたとしても、無為に時間を浪費するような性格ではなかった。ベッドの横に置かれた椅子の上には、彼のいつもの服が丁寧に畳まれており、レンはそれを素早く身に着けると、ためらうことなく部屋を後にした。
彼がまず向かったのは、自分の車を停めていた場所。──あの「鏡路」への入口だと言われていた、裏路地である。
すでに盗まれていても不思議ではないと予想していたが、意外にも車はそのまま残されていた。まるで誰か、あるいは“何か”がそれを守っていたかのように、一切手をつけられた形跡はなかった。
細かいことは気にせず、レンは運転席に乗り込み、エンジンをかける。そしてそのまま走り出した。
向かう先はただ一つ──相羽の家だった。
香刈の件を防げなかった今、これ以上の被害を出すわけにはいかない。もし香刈と同じように、相羽まで巻き込まれてしまったとしたら、自分はきっと後悔しても悔いきれない。
三十分ほど車を走らせ、やがて郊外の静かな住宅街へと到着した。
区画ごとに整然と並んだ家々。交差する道を迷うことなく進み、目的の住所へと辿り着く。
茶色い門扉には、白い名札がぶら下がっており、かろうじて名前が読める程度に。
その奥に建っているのは、質素な三LDKの一軒家。一見するとごく普通の家だが、よく目を凝らせば、雑な塗装によってどうにか見た目を取り繕っていることがわかる。
レンはインターホンを押すこともせず、門を越えて玄関前までまっすぐに歩いていった。
軒先に吊るされた防犯カメラを一瞥し、低く呟く。
「話がある」
その言葉の直後、電子錠が「カチャリ」と音を立てて解除された。
「“いつもの場所”にいる」
カメラから聞こえてきた声──それは相羽のものだった。
レンは玄関を開け、中へと足を踏み入れる。
迎えたのは、艶のある木製フローリング──だったが、その上には黒いゴミ袋がいくつも散乱しており、まるでゴミ処理場のような有様だった。
思わず片付けたい衝動に駆られるが、今はそんな暇はない。
ゴミの山をかき分けながら階段の方へ向かう。だが、レンは二階へは行かず、階段の横の壁に手を当てる。するとそこには、暗く狭い通路が現れた──地下へと続く抜け道である。
慣れた様子で通路に入り、後ろの壁を丁寧に閉じる。思ったよりも軽く、表面だけがコンクリート風に作られているようだった。
二階分ほどの高さを下っていくと、小さな踊り場が現れた。そこには一枚の扉と、その中央に設置された監視カメラがある。
「今、開ける」
再び相羽の声が響き、電子ロックが外れる音とともに扉が内側へと開いた。
その先に広がっていたのは、作業部屋──というより、完全に“工房”と呼ぶべき空間だった。3Dスキャナーやプリンター、コピー機など、デジタル機器が雑然と並び、整然とした混沌が支配している。
部屋の最奥には、六枚のモニターが並んだ巨大なPCセットが設置されており、その前の椅子に、相羽が座っていた。
「レン様、もう少しだけお待ちください。解析が、もうすぐ終わりますので」
彼は振り向かずにそう告げた。レンは肩をすくめて答えた。
「いや、急かすために来たんじゃない」
シジルの正体は、すでに彼の中では明らかだった。“ヴェールド”の一人から、直接聞かされていたのだから。
「いえ、シジルではありませんよ」
ようやく相羽が振り向き、眼鏡を中指で持ち上げながら微笑んだ。
「吉野の部屋に設置されていた監視映像を発見しました。襲撃の前後、そして…あなたに関する、別の映像も。いまはそちらの解析を行っていたのです」
彼がキーボードを叩くと、六枚のモニターにそれぞれ異なる静止画が表示される。
「まずはこちらから。全ての始まりです」
映し出されたのは──レンが紅の家から、“玄関”を通って出てくる映像だった。
レンの表情が曇る。確か、あのときは裏口から出て“旧線路”の迷路へ迷い込んだはずだ。しかし、じっと映像を凝視しているうちに、ある違和感に気づく。
「違う…あれは、俺じゃない…」
映像に映る“レン”の目は灰色ではなく、深い闇の中に浮かぶような真紅。そして口元には、青白く光るガラスのような歯を見せた、不気味な笑みが浮かんでいた。
続いて表示されたのは、吉野の部屋に仕掛けられていた隠しカメラの映像。通気口のスリットの中に設置されていたようで、映像の角度はやや上からだった。
そこにはレンと吉野が会話している様子が映っている…だが、二人の間には、最初からずっと“誰か”が立っていた。気づかなかったわけではない。正確には、気づけなかったのだ。そこには最初から、不気味な笑みを浮かべる存在がいた。
「次が本命です」
相羽は深く息を吸い、三つ目の映像を再生する。──吉野が殺された瞬間の記録だ。
映像はかなり乱れていた。ノイズと干渉線がひどく、見づらいものだったが、相羽の修復処理により、どうにか内容が確認できる状態にまでなっていた。
吉野は怯えた表情で、誰もいないはずの空間に向かって怒鳴っていた。叫び、腕を振り回し、顔は恐怖に引きつっていた。
そして──映像に遅延グリッチが発生し、吉野の体が一瞬で机の後ろから床の上へと“跳んだ”。部屋の中の物体も同時に位置を変え、一瞬のうちにカオスな光景が形成された。そして、映像はぷつりと終わった。
「最後の映像です」
相羽は疲れたような声でそう言い、最後のモニターに映像を映し出した。
それは、朝一番にレンが吉野のオフィスを訪れたときのものだった。
彼が遺体に近づき、膝をついた瞬間──カメラに再びノイズが走る。初めは微弱だったそれが次第に強まり、やがて画面上に“別の光景”が重なって映り始める。
──十数人の人物が、部屋の出入口に立っていた。
レンの背筋に悪寒が走る。
「そんな…俺は、あのときひとりだった...!」
相羽は静かに首を横に振った。
「私にも正確なことは分かりません。ただひとつ言えるのは──レン様が紅と接触した時点から、あなたは“特異点”になったということです。すべての現象が…あなたを中心に回り始めている」
その言葉を聞いた瞬間、治療を受けたときの記憶が蘇った。
──紅が、悲しげな笑みを浮かべながら呟いた言葉。
「感覚が真実に追いついてきた。そして、真実があなたを喰らい始める──」
「相羽、俺は…」
何かがおかしい。そう感じながらも本題に戻ろうと、レンが彼に目を向けたその時だった。
「相羽…鼻血が出てるぞ!」
「えっ...?」
彼は指で鼻の下をぬぐい──そして、モニターの光に照らされたその“液体”の色を見て、息を呑んだ。
それは──血ではなかった。
人間であれば、あり得ないはずの色。漆黒──完全な、真っ黒だった。
次の瞬間、二人の視線が交差した。
その顔には、言葉を失うほどの衝撃が浮かんでいた。