三秒遅すぎた

レンは、路地裏を走っていた。

もちろん、そこは“鏡路地”ではない。

東京の繁華街にある、ただの裏路地だ。

では、なぜ彼が今そこにいるのか──

それは、すべて“吉野の部屋”にいた時へと遡る。

「懐かしい写真ね…」

その声を聞いた瞬間、レンは深いため息をついた。

恐怖と苛立ちの間で揺れながら、顔を傾ける。目の前には、美しい女の顔があった。

「紅(くれない)…」レンは呟いた。「どうやってここに…いや、それより──吉野の死に、お前が関わっていたのか?」

遠慮のない問いかけだった。

「私? どうしてお爺さんを傷つける理由があるの?」

紅は小さく笑い、レンの手から写真をすっと奪い取って、じっと覗き込んだ。

「私じゃないわ。あの“印章(シジル)”を見れば分かるでしょ。ハンターたちの仕業よ」

「シジル...?」レンは銃を少し下ろしながら首を傾げた。「この刻印のことか?」

「そうよ」

紅は印に横目を向け、やがて首を横に振った。

「これは“探知罠型”のシジル。誰かがその上を通ると、使用者に即座に通知が届くようになってるわ。こういう下品な仕掛けを好むのは、ハンターだけよ」

「探知罠型…」

すべての疑問が解けたわけではないが、少なくともあの“ガラスの歯を持つ男”が先回りしていた理由は分かった。

レンが吉野の遺体に手を伸ばし、目を閉じようとしたあの瞬間──その足元には、すでにシジルが仕掛けられていたのだ。

紅の言うとおり、実に趣味の悪いトラップだった。

「じゃあ──」レンは気を取り直し、紅が持っている写真を指さした。「その写真は? 『懐かしい』って、どういう意味だ? この男を知ってるのか?」

「この子のこと?」

紅は写真を裏返し、赤い目をした少年を指さした。

「まさか、自分の幼い頃の姿が分からないの?」

「…!」

レンは息を呑んだ。

確かに、どこかで見覚えがある気がしていた。でもまさか、それが自分自身だとは夢にも思わなかった。

何より、目の色がまるで違っていたのだ。

写真の少年の目は、まるで血が滲むような鮮やかな赤。それに対して今のレンの瞳は、色褪せたような淡い灰色だった。

だが──もし本当にあの少年が自分だったとしたら、次の疑問が生まれる。

「それが俺なら──どうしてお前が懐かしいって言うんだ? まさか…前に会ったことがあるのか?」

「それは──」

紅が答えようとしたその瞬間、彼女の視線が東の方角へと跳ねた。

紅の赤い瞳が細まり、いつもの笑顔が不穏な表情へと変わる。

「残念だけど、話はここまでのようね」彼女は急いだ口調で言った。「あんた、他の誰かに“私たち”──“ヴェールド”のことを話したでしょ? 一人、女の子が“鏡路地”の中にいる…命が危ないわ」

「火柳...!」

その名を聞いて、レンは即座に察した。

普段なら、レンは他人の生死になど興味を持たない。だが──自分のせいで誰かが命を落とすことになるのなら、話は別だった。

紅はテーブルのそばにしゃがみ、散らばった資料の一枚を拾い上げてペンを走らせる。

「この路地よ。急いだ方がいいわ。時間はあまり残ってない」

レンは無言で紙を受け取ると、そのまま駆け出した。

一秒でも早く。一歩でも速く。

ビルの階段を一気に駆け降り、車へ飛び込み、アクセルを全開に踏み込む。

すれ違う車をかすめ、衝突寸前の危険運転。それでも構わなかった。

彼は──焦っていた。

三分で現場に到着し、車から飛び出す。指定された裏路地へ走り込む。

唇を噛みながら周囲を見渡し、叫ぶ。

「火柳…!」

──そして、彼女を見つけた。

白のロングスリーブに、グレーのダウンジャケット。

地面にうつ伏せに倒れ、影のような存在に引きずられていた。

彼女の顔は恐怖に歪み、目、鼻、口から血を流していた。

震える手を伸ばし、口を開いて──助けを求めようとしたのに。

声は、出なかった。

声を上げられなかった。いや、“言葉”が出せなかった。

レンは銃を構え、二発撃った。

バン! バン!

弾丸は確かに影に命中した。

だが、予想通りと言うべきか──影はただ揺れただけで、速度を緩めることもなくそのまま進み続けた。

「クソがッ!!」

レンはさらに加速した。距離を縮めようと、全速力で駆ける。

──だが届く前に。

二人の人影は“平らな鏡”の中へとすべり込み、

その鏡も、蜃気楼のように掻き消えた。

レンがその場にたどり着いたのは、三秒後だった。

だが、その三秒は──致命的に、遅すぎた。

「っ…!」

レンは自分の拳を、傍のコンクリート壁に叩きつけた。

鈍い音が路地裏に響き渡る。

「ふざけんなよッ!!」

叫びと同時に、彼の脇腹からはさらに多くの血が滲み出た。

先ほどからの激しい動きで、傷が再び開いたのだ。だが、そんなことはどうでもよかった。

彼は生き延びられる。

──だが、火柳は。

彼女は“鏡の世界”に連れて行かれた。

その先に何があるのか。どんな運命が待っているのか。

レンには、まったく見当もつかなかった。

だが、ただ一つだけは分かっていた。

──生きて帰れる可能性は、限りなく低い。

「落ち着いて…」

背後から、紅の声が届いた。そっと肩に手が置かれる。

いつ来たのかも分からない。だが彼女は、もうそこにいた。

「確かに、あんたのせいで巻き込まれた部分もある。でも、それをすべて背負う必要はないわ」

彼女は続けた。「彼女の命は彼女のもの。彼女自身が、選んだのよ」

そう言って、紅はレンの包帯に手をかざす。

「とにかく、まずは手当てをしないと。うちで治療の準備はすべて整ってる。まずは来て。それから話しましょ」

「…ああ」

レンは、深いため息をついて、血で濡れた拳をゆっくりと下ろした。

──だが、次の一歩を踏み出した瞬間。

視界がにじんだ。意識が揺らいだ。

血が、出すぎていた。身体が限界に達していたのだ。

ショック症状が始まり、崩れるのも時間の問題だった。

それを察した紅は、迷うことなく動いた。

「大丈夫、あんたは死なないわ」

いつもの薄い微笑みを浮かべながら、彼女はレンの腕を自分の肩にかける。

一歩。二歩。

──そして、次の瞬間には、彼らの姿は路地から消えていた。

その後の出来事について、レンの記憶はおぼろげだった。

意識はほとんど失われていて、断片的にしか覚えていない。

ただ一つ──

紅が、命を繋ごうと必死に動いてくれていたということだけは、確かだった。

──それだけで、十分だった。