レンは、路地裏を走っていた。
もちろん、そこは“鏡路地”ではない。
東京の繁華街にある、ただの裏路地だ。
では、なぜ彼が今そこにいるのか──
それは、すべて“吉野の部屋”にいた時へと遡る。
「懐かしい写真ね…」
その声を聞いた瞬間、レンは深いため息をついた。
恐怖と苛立ちの間で揺れながら、顔を傾ける。目の前には、美しい女の顔があった。
「紅(くれない)…」レンは呟いた。「どうやってここに…いや、それより──吉野の死に、お前が関わっていたのか?」
遠慮のない問いかけだった。
「私? どうしてお爺さんを傷つける理由があるの?」
紅は小さく笑い、レンの手から写真をすっと奪い取って、じっと覗き込んだ。
「私じゃないわ。あの“印章(シジル)”を見れば分かるでしょ。ハンターたちの仕業よ」
「シジル...?」レンは銃を少し下ろしながら首を傾げた。「この刻印のことか?」
「そうよ」
紅は印に横目を向け、やがて首を横に振った。
「これは“探知罠型”のシジル。誰かがその上を通ると、使用者に即座に通知が届くようになってるわ。こういう下品な仕掛けを好むのは、ハンターだけよ」
「探知罠型…」
すべての疑問が解けたわけではないが、少なくともあの“ガラスの歯を持つ男”が先回りしていた理由は分かった。
レンが吉野の遺体に手を伸ばし、目を閉じようとしたあの瞬間──その足元には、すでにシジルが仕掛けられていたのだ。
紅の言うとおり、実に趣味の悪いトラップだった。
「じゃあ──」レンは気を取り直し、紅が持っている写真を指さした。「その写真は? 『懐かしい』って、どういう意味だ? この男を知ってるのか?」
「この子のこと?」
紅は写真を裏返し、赤い目をした少年を指さした。
「まさか、自分の幼い頃の姿が分からないの?」
「…!」
レンは息を呑んだ。
確かに、どこかで見覚えがある気がしていた。でもまさか、それが自分自身だとは夢にも思わなかった。
何より、目の色がまるで違っていたのだ。
写真の少年の目は、まるで血が滲むような鮮やかな赤。それに対して今のレンの瞳は、色褪せたような淡い灰色だった。
だが──もし本当にあの少年が自分だったとしたら、次の疑問が生まれる。
「それが俺なら──どうしてお前が懐かしいって言うんだ? まさか…前に会ったことがあるのか?」
「それは──」
紅が答えようとしたその瞬間、彼女の視線が東の方角へと跳ねた。
紅の赤い瞳が細まり、いつもの笑顔が不穏な表情へと変わる。
「残念だけど、話はここまでのようね」彼女は急いだ口調で言った。「あんた、他の誰かに“私たち”──“ヴェールド”のことを話したでしょ? 一人、女の子が“鏡路地”の中にいる…命が危ないわ」
「火柳...!」
その名を聞いて、レンは即座に察した。
普段なら、レンは他人の生死になど興味を持たない。だが──自分のせいで誰かが命を落とすことになるのなら、話は別だった。
紅はテーブルのそばにしゃがみ、散らばった資料の一枚を拾い上げてペンを走らせる。
「この路地よ。急いだ方がいいわ。時間はあまり残ってない」
レンは無言で紙を受け取ると、そのまま駆け出した。
一秒でも早く。一歩でも速く。
ビルの階段を一気に駆け降り、車へ飛び込み、アクセルを全開に踏み込む。
すれ違う車をかすめ、衝突寸前の危険運転。それでも構わなかった。
彼は──焦っていた。
三分で現場に到着し、車から飛び出す。指定された裏路地へ走り込む。
唇を噛みながら周囲を見渡し、叫ぶ。
「火柳…!」
──そして、彼女を見つけた。
白のロングスリーブに、グレーのダウンジャケット。
地面にうつ伏せに倒れ、影のような存在に引きずられていた。
彼女の顔は恐怖に歪み、目、鼻、口から血を流していた。
震える手を伸ばし、口を開いて──助けを求めようとしたのに。
声は、出なかった。
声を上げられなかった。いや、“言葉”が出せなかった。
レンは銃を構え、二発撃った。
バン! バン!
弾丸は確かに影に命中した。
だが、予想通りと言うべきか──影はただ揺れただけで、速度を緩めることもなくそのまま進み続けた。
「クソがッ!!」
レンはさらに加速した。距離を縮めようと、全速力で駆ける。
──だが届く前に。
二人の人影は“平らな鏡”の中へとすべり込み、
その鏡も、蜃気楼のように掻き消えた。
レンがその場にたどり着いたのは、三秒後だった。
だが、その三秒は──致命的に、遅すぎた。
「っ…!」
レンは自分の拳を、傍のコンクリート壁に叩きつけた。
鈍い音が路地裏に響き渡る。
「ふざけんなよッ!!」
叫びと同時に、彼の脇腹からはさらに多くの血が滲み出た。
先ほどからの激しい動きで、傷が再び開いたのだ。だが、そんなことはどうでもよかった。
彼は生き延びられる。
──だが、火柳は。
彼女は“鏡の世界”に連れて行かれた。
その先に何があるのか。どんな運命が待っているのか。
レンには、まったく見当もつかなかった。
だが、ただ一つだけは分かっていた。
──生きて帰れる可能性は、限りなく低い。
「落ち着いて…」
背後から、紅の声が届いた。そっと肩に手が置かれる。
いつ来たのかも分からない。だが彼女は、もうそこにいた。
「確かに、あんたのせいで巻き込まれた部分もある。でも、それをすべて背負う必要はないわ」
彼女は続けた。「彼女の命は彼女のもの。彼女自身が、選んだのよ」
そう言って、紅はレンの包帯に手をかざす。
「とにかく、まずは手当てをしないと。うちで治療の準備はすべて整ってる。まずは来て。それから話しましょ」
「…ああ」
レンは、深いため息をついて、血で濡れた拳をゆっくりと下ろした。
──だが、次の一歩を踏み出した瞬間。
視界がにじんだ。意識が揺らいだ。
血が、出すぎていた。身体が限界に達していたのだ。
ショック症状が始まり、崩れるのも時間の問題だった。
それを察した紅は、迷うことなく動いた。
「大丈夫、あんたは死なないわ」
いつもの薄い微笑みを浮かべながら、彼女はレンの腕を自分の肩にかける。
一歩。二歩。
──そして、次の瞬間には、彼らの姿は路地から消えていた。
その後の出来事について、レンの記憶はおぼろげだった。
意識はほとんど失われていて、断片的にしか覚えていない。
ただ一つ──
紅が、命を繋ごうと必死に動いてくれていたということだけは、確かだった。
──それだけで、十分だった。