鏡路地の死

「…ここ、で間違いないよね」

東京の繁華街の片隅、人目のない裏路地に、見慣れた姿があった。

今どきの流行を取り入れたスタイル、白のトップスに淡いグレイのダウンジャケット。まるでモデルのような出で立ち。だが、彼女の正体はプロの暗殺者だった。

――もっとも、今は仕事ではなかった。

彼女が探していたのは、“証拠”。

「レンの話に出てきた“鏡路地(ミラーアレー)”…気になってたんだよね。あの最後の電話も…」

自分自身に言い聞かせるように、火柳(かがり)は小さく呟いた。

白の袖越しに腕を擦る。鳥肌が立っていた。

分厚いダウンを着ていても、その「冷たさ」は防げなかった。

なにしろ、ここが――レンが言っていた“鏡路地”の入口だったのだから。

見つけ方? それはネットに情報が落ちていた。ただし、普通の探し方じゃ無理だった。

でも、火柳はそういう「探し物」に関しては、プロだった。

「ここから十三歩、まっすぐ歩いて…っと」

手元のメモを読み返す。そこには“鏡路地”に入るためのステップが書かれていた。

手順というより、どこかオカルトじみた、十三、四、七といった不吉な数字を組み合わせた怪しい儀式。

それでも、火柳は気にせず歩を進めた。周囲の目を気にするような性格ではなかった。

「…ん?」

半分ほど歩いたところで、何かの“影”が動いたように見えた。

反射的に目を向けた――だが、そこには何もなかった。

影は、ちゃんと影のままだった。

「…気のせいか」

首を振り、再び前を向いた。

だが――その時すでに、火柳は「現実世界(オーバーワールド)」から外れていた。

本人は気づかないまま、“十三歩”を初めに、儀式を進めていた。

何も起きないまま、最後の手順を終えた。

「で…ここで、四回手を叩く、っと…」

少し顔をしかめながら、メモを丸め、手順通りに手を叩いた。

パン! パン! パン! パン!

ちょうど四回。

火柳は目を閉じた。どこか異世界に引きずり込まれるかのような感覚を期待して――

――だが、何も起きなかった。

そっと片目を開け、もう片方も開いた。左右を見渡した。

…変化は、なかった。

今もそこは、ただの裏路地。ネットに書かれていた“鏡路地”など、どこにもなかった。

「…ハズレか。ま、ネットの情報なんてそんなもんか」

肩をすくめ、メモをポケットに押し込み、踵を返した――その瞬間。

「…え?」

思わず声が漏れた。

目の前に、「鏡」があったのだ。

「…こんなの、あったっけ?」

確かに来たときは、何もなかった。看板も、飾りも、鏡なんて目立つものがあれば絶対に見逃さなかった。

「…ここが、“鏡路地”…?」

ついに繋がった。成功してしまったのだ。

火柳は最初から期待していなかった。それが逆に功を奏したのかもしれない。

だが――レンと違って、火柳は“落ち着いたタイプ”ではなかった。

「くそっ…あたし、帰る!」

入り方ばかり調べて、出方まではちゃんと調べていなかった。それが裏目に出た。

すぐに踵を返した――しかし、そこにも異変が。

「…道、変わってる!?」

最初にいたはずの路地が、消えていた。

代わりに現れたのは、四方を鏡で囲まれた細長い通路。

どの鏡にも、自分の姿が正確に映っていた。

――最初の一歩を踏み出すまでは。

「…!」

足を動かした瞬間、すべての“鏡の中の自分”が動きを止め、火柳を見つめ返してきた。

その目は、黒く、虚ろで、魂を覗き込むかのようだった。

「あたし…間違えたんだ...!」

レンの警告を、もっと信じるべきだった。

今、彼女は完全に“異常現象”の中心にいた。しかも、脱出手段は皆無。

だから、彼女は常識的に走った。

ダウンジャケットがバサバサと音を立てた。命がけの全力疾走。

「くそっ...!」

だが、何分走っても――終わりはなかった。

“鏡路地”は、終わらなかった。あるいは、ループしていたのかもしれない。

どこからが始まりで、どこが終わりなのかも、わからなかった。

酸欠気味に息を吐き、膝に手を置いて前屈みになった。

呼吸は乱れ、視界がにじんだ。脈は限界を超えていた。

恐怖と疲労が入り混じり、理性が崩れていった。

そのとき、彼女がずっと無視し続けていた鏡たちに――変化が訪れた。

「う… そ…」

そこに映っていたのは、様々な「火柳」だった。

立ち尽くす者。地面に倒れる者。大笑いする者。赤子のように泣く者。

――そして、ただ微笑んでいる者。

すべて、あの黒い目をしていた。

だが、その中で一枚だけ、明らかに“異質”な鏡があった。

それはただの姿見だった。家庭によくある、ごく普通の鏡だった。

映っていたのは、今の自分。膝に手をつき、顔は青ざめ、汗でびっしょりだった。

だからこそ――おかしかった。

「…レンが言ってた、“写し鏡”...!」

胸が詰まり、息が止まりかけた。

もし、レンの話が本当なら。

あれは自分ではない。“ガラスの歯”を持つ“何か”だった。

レンが負傷したときのこと。そのときの、警告の声。

『あの鏡に、絶対に近づくな』

それが正しい判断だった。常識的な対応。

だが――今の彼女は、もはや「常識の外」にいた。

すでに、“狩人”の掌で転がされていたのだ。

“写し鏡”の中の火柳が、動いた。

彼女を真似するのではなく――“勝手に”。

ゆっくりと背を伸ばし、こちらへと歩き出した。

コツ、コツ、コツ...!

鏡の中から、足音が鳴った。

『音が、聞こえる...!?』

ありえないことに、心が凍った。

そして、

“火柳”は、鏡をすり抜けるように、こちらの世界へと足を踏み出した。

まるで、そこに境界など存在しなかったかのように。

火柳は凍りついた。目を見開き、口を開けても声が出なかった。

「…レン…」

震える唇から、かすれた声が漏れた。

「…ごめん…」

涙が目に溢れ、今にも泣き崩れそうなその瞬間。

“火柳”は、微笑んだ。

――あの、ガラスの歯を、見せながら。