火柳(かがり)がその言葉を伝えた後、急いで席を立ち、その場を去った。
電話越しに聞いた“声”が、よほど彼女の心を掻き乱したのだろう。
それが、レンの語る「ヴェールド」の話を、ほんの少しだけ現実味あるものにした。
レンもまた、長居はしなかった。
火柳が去るとすぐに、レンは車へと戻り、静かに発進した。
スピードは出さず、安全第一。だがその目は鋭く、絶えず周囲を警戒していた。
街灯が闇を追い払うように煌めき、遠くでサイレンが鳴り響き、クラクションの音が喧しく響いていた。
人混み、車列、信号を無視する歩行者――いつもの街の風景。
だがレンの視線は、休むことなく動いていた。
何か、ひとつでも「おかしいもの」がないか、探し続けていた。
人外と遭遇したあの夜以来、彼はあらゆるものを疑うようになっていた。
(…あれらの連中は、本当に“人間”なのか?)
(それとも、紅(くれない)のように、人の皮を被っただけの...?)
思考が濁る。脇腹が疼く。視界に映るすべてが、疑わしく見えた。
だがレンは、首を振って意識を切り替えた。
向かった先は、見覚えのある、名前のないビジネスホテル。
「静かなる部屋」がある、あの場所だった。
傷も癒えていない――それでも、もう一度だけ、確かめておきたかった。
武器を服の下に隠しつつ、レンはロビーの自動ドアをくぐった。
薄暗い照明、誰もいない受付カウンター。
無言のままエレベーターへと歩を進め、
「カチ、カチ、カチ」と、秘密のコードを入力する。
――そして、上昇。
エレベーターが止まったのは、忌まわしき“十三階”。
「…」
迷いはなかった。
レンは背中に差していた銀メッキのデザートイーグルを取り出し、両手で構える。
銃口は前方へ。気配を探りながら、慎重に進んだ。
赤いカーペット、くすんだ照明、見慣れた廊下。
だが――ひとつだけ、異変があった。
吉野(よしの)の部屋のドアが、開いていた。
完全に、開け放たれていた。
ドアの前からでも、部屋の中がうっすらと見える。
そしてすぐに、違和感に気づいた。
――吉野の遺体が、ない。
入口近くに倒れていたはずの彼の姿が消えていた。
床に描かれた血の印だけが、ぽつりと残されている。
レンは銃を構えたまま、ゆっくりと足を進める。
部屋の中へ――一歩、また一歩。
誰の気配もない。音も、動きもない。
静寂だけが支配していた。
レンは警戒を続けながら、壁のスイッチに手を伸ばす。
カチ。
明かりは点かない。
何度も切り替えてみたが、反応はなかった。
電球が切れている――そう判断したレンは、ため息をつきつつポケットに手を入れる。
親指ほどの小型ライトを取り出し、点灯。
白い光が部屋を照らす――そして、すぐに目に飛び込んできたのは――足跡。
三組。
ひとつは自分のもの。数時間前に来たときの跡。
もうひとつは、あの「ガラスの歯」を持つ男のもの。
そして三つ目は――新しい。あきらかに、新しい。
(誰かが、俺たちの後にここに来た。そして…吉野の遺体を運び出した?)
味方か、清掃班か――そうであってくれと願う。
ヴェールドだった場合は…考えたくもなかった。
レンは印へと視線を移し、ゆっくりと歩み寄った。
初めて見たときは、吉野の体に隠れて見えなかったその全容が、今ははっきりと見える。
大きな円。その中心から放射状に伸びる渦。
線上には、かすかに文字――あるいは記号のようなものが刻まれていた。
「…アイバに送っておくか」
独り言を漏らし、携帯を取り出す。
カメラを起動し、数枚の写真を撮影した。
それを、仕事仲間専用の暗号化されたメッセンジャーでアイバに送信する。
送信が完了すると、レンは携帯をしまい、今度はデスクへと向かった。
吉野ほどの男なら、何かを残しているはずだ。
あからさまにではなく――隠すように、慎重に。
レンは引き出しを順に開け、叩き、感触を探る。
空洞の音、異物感――わずかな兆しを探し続けた。
引き出しは六つ。上の五つは空振りだった。
そして、最下段――もっとも大きな引き出し。
慎重に引き出しつつ、側面と底を叩く。
…何もない。普通の引き出しだ。
「…何もねぇな」
元に戻そうとした、そのとき――妙な違和感が。
「…ん?」
この引き出し、なんか…浅くないか?
確かめるために、ひとつ上の引き出しを抜き取る。
やはり。
下段の引き出しの奥行きは、上段よりも一インチほど短かった。
「裏があるな…」
レンは即座に引き出しを抜き取り、裏面を調べた。
背板は異様に分厚い。側壁の三倍はある。
それが決定打だった。
手袋越しに指先で感触を探り、やがて底部に小さな凹みを発見。
そこに指を差し込み、力を込めて押す。
カチッ。
わずかな解放音。
隠された上面パネルが、静かに浮き上がった。
横にスライドすると――そこには、褐色のフォルダーが一冊、隠されていた。
紙は黄ばんでおり、明らかに古い。
引き出しを逆さにすると、フォルダーが床に落ち、中身がこぼれ出た。
数枚の資料。そして――一枚の写真。
「この写真…」
レンはそれを拾い上げ、ライトで照らす。
まず、裏側。
乱雑で読みづらい文字が、走り書きされていた。
『被写体:R-Null。稼働中であれば、即座に接触を絶て』
意味はわからなかったが、頭に叩き込んだ。
写真の表に視線を戻す。
そこには、漆黒の髪に紅い瞳の少年が、古びた建物――孤児院らしき場所の前に立っていた。
レンの背筋に、冷たいものが走る。
その少年には、どこか――見覚えがあった。
コツ、コツ…
足音。
近づいてくる。
レンは即座に顔を上げ、銃を構えた。
(またかよ――!)
立ち上がり、構える。
もし“あのガラスの歯の野郎”だったら――今度こそ逃さない。
足音は、確実に近づいてくる。
だが、廊下の先には誰の姿もない。
影すらない。
それでも音だけは、確かにそこにあった。
――そして。
「懐かしい写真だなぁ……」
耳元で、誰かが囁いた。
その声は――あまりにも、聞き覚えのある声だった。