歯を持つ名

「シーッ……」

紅(くれない)はそっとレンの唇に指を当て、声を潜めさせた。

「ミラーアリー(鏡路地)じゃ、そんな声出しちゃダメ。すぐ――見つかっちゃう……」

レンは混乱したが、従った。唇を噛み、黙り込んだ。

紅にどんな意図があろうと、今置かれた状況では、どちらに転んでも地獄行きだ。

なら――今は、彼女を信じるしかなかった。

「手を握って。――私が連れて出るから」

紅は襟を離し、手を差し伸べた――その指先は、淡いピンクに染められた爪。

レンは一瞬ためらったが、そっとそれを握った。

暖かかった……。

死体のように冷たいと思っていたのに、予想よりずっと温かかった。

紅はかすかな微笑みを浮かべ、嬉しげに瞬きをしながら囁いた。

「離れちゃダメ。後れを取らないで」

そして、彼女は門をくぐるように先導した。

最初こそ、明らかな道を進んだ。

だが数十歩歩くと、紅は鏡の一枚もない、平坦な壁の方へ誘った。

レンは眉を寄せた。警戒本能が、そこが“危険”だと告げていたからだ。

しかし、やはり今回も紅を信じるしかなかった。

壁にぶつかる寸前で、レンは目をつむった。

「ふふ……もう開けていいわよ」

紅のささやきが聞こえた後、レンは目を開けた。

目の前には、見覚えのある――女性の部屋があった。

老いたシダーウッドの香りと、花の匂いが混じって漂っていた。

一角には質素だが清潔なベッドがあり、白いカバーが掛けられていた。

CRTテレビとVHSプレーヤー、その前に赤いソファ。

山積みのビデオテープは“黒い塩”で囲われ、今にも落ちそうだった。

棚にはガラス瓶が並び、虫や薬草、正体不明の物体が入っていた。

「ここは…あなたの部屋?」

レンはぼんやりと問いかけた。

紅はうなずいた。――この部屋は、彼女のものだった。

「そう。でも長居はできないわ。もしここで――“彼ら”に見つかったら……」

彼女の声は遠く、悲しげだった。

「すぐに逃げなきゃいけない。行かないと……」

視界はまた暗転し、意識が遠ざかっていった。

最後に残ったのは、紅のか細い、しかし寂しげな笑みだけだった。

午後遅く――24時間営業コンビニの屋上カフェ。

白いシャツの袖をまくり、胸元はボタンを外していた。

炭黒のコートはたたまれて隣に置かれ、手にはウィスキーのグラスをぐっと握っていた。

もちろん中身はウィスキーではなかった。薬品に近い匂いだけを嗅ぐためだった。

「……」

レンはそっと自分の横腹に触れた。

まだ傷は残ったまま、応急処置用キットで浅く止血しただけだった。

皮膚は血の失われで蒼白になっていたが、目はしっかりと光を宿していた。まだ諦めていなかった。

そこへ声が――

「遅かった?」

レンが顔を上げると、そこに立っていたのは――

真っ白なブロンドの髪。

嘘くさいほど整った顔立ちで、瞳は優しげなブラウン。

タートルネックにダウンジャケット、細身ジーンズというラフな格好。

「いや。まだだ」

レンは淡々と呟いた。

「うわ……すごい傷だね。それ、病院行こうか?」

彼女は心配そうに訊いたが、どこまで本気かはわからなかった。

ただ確かなのは、服の下までちゃんと傷が透けて見えていたということ。

あの子はただ者ではなかった。

「黙って座ってろ、火柳(かがり)。それが手伝いになる」

「うん!」

火柳(かがり)は素直に笑いながら隣に腰を下ろした。

二分後、少し遅れてもう一人が到着した。

「す、すみません…遅れました!」

アイバが駆け込んできて、汗をぬぐった。

「アイバさん、久しぶり~! 二週間ぶりくらい?」

火柳は元気に迎えた。

「はい、火柳さま。先日の映像ですが、まだ分析中です。明日正午までには完成させます」

「無理しなくていいよ~」

レンは二人の会話が収まるのを待ち、口を開いた。

「吉野先生は死んだ」。

――きっぱりと。

火柳とアイバは息を呑み、顔色が一気に変わった。

「……ふざけないでよ。冗談だったら殴るよ?」

火柳が低い声で警告した。

「吉野先生が…?」

アイバも動揺を隠せなかった。

二人とも暗殺者であり、先生との繋がりは深かった。

このニュースは、まるで銃弾――胸を貫いた。

「本気だ。これから説明する。今だけ黙って聞け。始まりは――」

レンはためらいなく話し始めた。

演算時間は10分間。

対象:紅、吉野先生の死、ミラー・アリーでの超常現象。

火柳も、アイバも──信じたくなかったが、レンに冗談癖などなかった。

「――こちら、先生の下に描かれていた印のコピー。アイバ、これを分析して結果をよこせ」

レンは折りたたまれた紙をそっと差し出した。

火柳は半分笑いながら呟いた。

「じゃ……幽霊彼女の呪い、ってわけ?」

その視線はレンの横腹の傷へ。

今いちばんの問題は、この傷だった。

止まらず、止血できず。水道のように血が垂れ続けていた。

「今夜中に解析結果を届けるよ、レンさま」

アイバは深く一礼し、駆け出した。

「……あいさつすらなしだよね」

火柳は呟いた。

ブルールールー!

携帯が震えた。

「あっ……ちょっと待ってね」

火柳は携帯を取り出したが、彼女の顔が凍った。

着信者不明。

火柳はレンに小さくうなずき、通話ボタンを押した。

数秒後、彼女の顔色は真っ青になった。

「……誰?」

レンが訊いた。

火柳は首を振り、震える声で言った。

「知らない。男の声で……初めて聞いた。すぐ、言われたの――」

彼女は息を飲み、言葉を紡いだ。

「“レンを見るな”って」。