レンは、その場で立ち尽くした。
目の前——扉から現れたのは、まるでこの場所の主であるかのような足取りで歩いてくる、自分自身だった。
顔も、漆黒のスーツも、フェドラ帽までも——すべてが同じ。
だが、明らかな“違い”があった。
本物のレンは、鋭い視線で侵入者を睨みつけていた。
一方で、偽物は——ガラスのように光る歯をむき出しにして、にたりと笑っていた。
「…お前か...!」
レンはその笑みを即座に思い出した。
数時間前、レコーダー越しに一瞬だけ映った“それ”。
吉野先生の命を奪ったのが、あの“影”だった。
レンは短刀を握り締め、机を飛び越えて真っすぐに突進した。
一切の迷いもない、最短距離の殺意。
「ケケッ!」
敵もまた、レンを写すように同じナイフを抜き放ち、突っ込んできた。
動きのひとつひとつが、まるで鏡合わせのようにそっくりだった。
だが——レンは自分の“写し”に負ける気はしなかった。
斬撃は一直線。
突きと横のたきを組み合わせた鋭い一閃。
敵も同様に、刃を前へと突き出した。
キィィィィン!
刃がぶつかり、火花を散らした。
「くっ...!」
その瞬間、レンは悟った。
——こいつは強い。圧倒的に。
自分と同じ技、同じ動き。
だが、そこに宿る“力”の差が致命的だった。
即座に構えを変え、力を受け流すようにナイフを斜めに傾けた。
刃は滑り、レンの体をかすめて通り過ぎた。
そして、レンは低く身を沈め、下から顎を狙って蹴り上げた。
今回は、動きが一致しなかった。
ゴッ!
的確な蹴りが顎を捉え、偽物は数メートルほど吹き飛んで仰向けに倒れた。
——脳を揺さぶるほどの一撃。
それで終わったはず、だった。
だが次の瞬間、敵は背中を使ってくるりと後転し、すぐに立ち上がった。
あの不気味な笑みは消えていなかった。
まるで、何のダメージも受けていないかのように。
再びレンの構えを完璧に模倣しながら、静かに姿勢を整えていった。
「てめぇ…」
レンは低く唸った。「お前も…ヴェールドか?」
「ケケケッ!」
返答はなかった。ただ笑うだけ。
だが、そいつの目が変わった。
黒く染まった瞳の中心に、赤い点が浮かんでいた。
——ゾッとするような視線。
まるで、見つめられるだけで背筋が冷えるような“何か”。
このままでは分が悪い。
技量では勝っていても、力の差があまりにも大きすぎた。
結論は一つ——退くしかない。
「はっ!」
再び前に踏み込み、今回は逆手にナイフを持ち、すり抜けるような構えで突進した。
敵の攻撃を“受ける”のではなく、“滑らせる”ための突撃。
シィィィン!
互いの体がすれ違う瞬間、ナイフ同士がかすめ合い、金属音を鳴らした。
そして一瞬で立ち位置が逆転し、レンは扉により近い位置に立っていた。
その時だった——
偽物の赤い目が、空中に飛んでいる小さな筒を捉えた。
バァンッ!
閃光と爆音が部屋を包んだ。
スタングレネードだった!
敵は視界と聴覚を奪われ、その間にレンは全力で走った。
エレベーターへ一直線。
幸運にも、まだそこにあった。
飛び込み、閉ボタンを連打する。
「早く...!」
だが、扉はやけに遅く感じられた。
カチャッ。
閉まりかけた扉の隙間から、偽物がこちらを向いた。
赤い目で、真っすぐにレンを射抜くように見つめていた。
そして——瞬間的なダッシュ。
人間離れした速度で、扉へと迫ってきた!
ドン!
扉がギリギリで閉まりきり、動き出した。
だが——扉にはくっきりと“顔”の痕が残っていた。
——レンのものではなかった。
より鋭角で、より異質な“何か”の顔。
「はぁ…」
レンは深く息を吐いた。
生き延びた。間一髪だった。
だが——これから、どうすればいい?
あんな相手と、正面からやり合えるわけがない。
チン。
エレベーターが一階に到着し、扉がゆっくりと開いた。
レンは身構えて、外へ——
「...え?」
目の前の光景に、思わず言葉を失った。
「ここは…どこだ?」
そこはホテルのロビーではなかった。
いや、それどころか建物の外ですらあるように思えた。
暗く狭い路地。
壁には無数の鏡——凹面、平面、凸面——がびっしりと並んでいた。
「この鏡...!」
すぐに異常性に気づいた。
映っていたのは、自分自身の“歪んだ姿”だった。
不気味に笑う自分。狂ったように笑い転げる自分。
泣き崩れる自分。目から血を流す自分。
胸にぽっかりと穴が空いた自分。
——どれもこれも、正気とは思えない“自分”たち。
ここがどこなのか、レンにはすぐに分かった。
まただった。あの場所だ。
初めて紅と出会った時に迷い込んだ、出口のない“あの場所”。
鏡の一つひとつを見回した。
その中に、一つだけ“完全に普通の自分”を映している平面鏡があった。
——違和感。ここだけは、歪んでいなかった。
レンはそっと近づいた。
鏡は、ぴたりと同じ動きを返してきた。
「…ここから、出られるかもしれない。」
直感がそう告げていた。
一歩前へ出て、自分の姿と向き合った。
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
鏡の中の“自分”も、同じように手を伸ばした。
ピタリ。
手のひらが重なり合った。
——温もりを感じた。
「っ...!」
その瞬間、映像が異変を起こした。
鏡の中の“自分”が、ナイフを取り出し——
それを、自分の腹に突き刺した。
グチャッ!
「ぐっ...!」
同時に、レンの体に激痛が走りました。
横腹から鮮血が流れた。
鏡の中の“自分”は無傷のまま、じっとこちらを見つめていた。
まるで、傷が“こちらに転送された”かのようだった。
「くっ...!」
レンは後退し、痛みをこらえながら傷口を押さえた。
だが、出血は多い。このままでは危険だった。
「てめぇ...!」
ナイフを抜き放ち、鏡に向かって叫んだ。
「やる気なら…来いや!」
冷や汗が、額から滴り落ちた。
鏡の中の“自分”は、一瞬だけ完全な模倣に戻った。
だが——口元がにやりと歪んだ。
また、あの笑みだった。
ガラスのような歯。あの“影”と同じもの。
「お前だったのか...!」
レンはナイフを構え、鏡に向かって斬りかかろうとした——
その時だった。
ガッ!
背後から、誰かに襟を掴まれた。
「…ぐっ!」
呼吸が詰まる。喉を押さえられ、声も出せなかった。
「やめておきなさい。そんな状態で動けば、死ぬだけよ。」
鈴のように澄んだ声。
「…見てみなさい。そんなに血を流して…周囲に“気付かれる”わよ。」
「お前は...!」
振り返ると、そこにいたのは——
あの美しい顔。
最後のターゲット、殺し損ねた“あの女”。
「...紅(くれない)!」