硝子の歯

レンは最初、ただただ唖然としていた。

ほんの数分前に出てきたばかりの部屋が、そこにはなかったのだ。

廊下の風景自体は変わっていない。壁も、赤いカーペットも、薄暗く黄ばんだ壁のライトも。

ただ一つ違うのは——静かなる部屋に繋がるはずの扉が、跡形もなく消えていたこと。

「そんな馬鹿な…」

信じたくなくて、レンは記憶を頼りに扉があった場所まで歩み寄った。

そして平らな壁を拳で叩いた。

ドン!

その音で、彼は確信した。

それは普通の、何の変哲もない固い壁だった。後ろに空間がある感触もない。

「おかしいな…」

唇を尖らせ、来た道を引き返した。

一度エレベーターで一階まで下り、再び十三階へ戻ってきて、先ほどと同じく隠された順番でボタンを押した。

再び十三階へ——しかし、

「…やっぱり、扉がない。」

何度繰り返しても、そこに扉は現れなかった。

レンの中に、得体の知れない不安がこみ上げる。

部屋が警告もなく“消える”なんてこと、あるはずがない。

数時間を費やし、代わりの入り口や手がかりを探した。

挙句の果てには換気口まで這い回ったが、何の成果もなかった。

まるで、“静かなる部屋”という存在そのものが、この世界から消滅してしまったかのように。

——

時間が経ち、別の安ホテルで眠れぬ一夜を過ごした後、再び十三階へ。

チン!

エレベーターのベルが鳴り、レンは降りた。

赤いカーペットの廊下、薄暗い照明、そして——

「…!」

そこに、“あるはずの扉”があった。

昨日いくら探しても見つからなかったそれが、今は何事もなかったかのように、そこに立っていた。

「…マジかよ。」

驚きと焦りが混ざったまま、レンは駆け寄る。

足音ひとつ立てずに、蝶の羽ばたきのような気配で。

やがて扉の前に立ち、ドアノブに手を伸ばすが——

「…この匂い…血、か?」

かすかに、しかし確実に漂ってくる鉄の臭い。

その瞬間、レンの感覚が一気に鋭くなった。

一瞬で、冷徹な暗殺者の顔へと戻る。

背中からナイフを抜き、手に構える。

ノブをゆっくり回す。鍵は——かかっていない。いつも通りだ。

扉がきしみを上げて開いていくたび、血の臭いが濃くなっていく。

レンの目が鋭く光った、部屋の内部を一瞥した。

まるで、嵐でも通ったかのようだった。

普段から雑然としていた先生の部屋が、今はさらに酷い有様だ。

書類は紙吹雪のように床一面に散らばり、引き出しは開け放たれ、中身が溢れているか、床に落ちていた。

「先生…!」

しかし、最も目を引いたのは、部屋の主だった。

——吉野先生。

天井のファンの真下で、仰向けに倒れていた。

両手両足を大の字に広げ、身体には目立った外傷はない。だが、その死は一目で明らかだった。

彼の下には、一切の書類も何もなく、代わりに奇妙な印が描かれていた。

血で描かれた螺旋状の魔法陣——レンには見覚えのないもの。

「…っく!」

奥歯を噛み締める。

最悪の結末が、最悪の形で現実になった。

レンは膝をつき、先生の元へ。

開きっぱなしの怯えた目元に、そっと手を添えて閉じてやった。

それが、今の自分にできる、せめてもの弔いだった。

「絶対に見つけ出してやるよ、先生…」

「必ず、あんたの死の仇を取る。」

レンと吉野は決して“親密”ではなかった。

それは、暗殺者とブローカーという立場上当然だった。

だが、この仕事を始めて二年——何度も助けられたことは事実だ。

恩を仇で返すような男ではない。

だが、それ以上に、レンは“恨みを百倍にして返す”性質の男だった。

感傷に浸るのは、ほんの数秒だけ。

すぐさま立ち上がり、机の後ろへと移動した。

普段は雑然としていた机の上が、今は逆に物寂しい。

書類がすべて床に落ちていたせいだ。

灰皿と、溢れかえった吸い殻、そして陶器の招き猫だけが、机の上に残されていた。

「…ここもか。」

引き出しを開けてみるが、案の定、すべて漁られていた。

仮に何かが足りないとしても、元々整理されていなかったせいで、比較のしようがなかった。

「…ん?」

だが、一つだけ、閉じられたままの引き出しがある。

手をかけて開こうとしたが、鍵がかかっていた。

取っ手の上には小さな鍵穴があるが——

「鍵なんて、もうないだろ。」

鍵が吉野先生の手元にあったなら、あれだけ部屋をひっくり返した犯人が気づかないはずがない。

それでも開いていないということは——つまり、開けさせるつもりがなかったということだ。

だが、だからといって諦めるレンではない。

ロックピックの道具を取り出し、数十秒もかからずにカチリと鍵を開けた。

「…ん?」

中にあったのは、小型のレコーダーだった。

隠しカメラ用の録画装置だ。

画面の角度からして、扉を向いていると分かる。さすがは先生、とレンは感心した。

躊躇なく再生ボタンを押し、時間を巻き戻す。

狙うのは九時間前——レンが部屋を出た直後の映像。

だが——

その映像が始まった瞬間、奇妙なノイズが走った。

部屋の映像が激しく乱れ、音声も完全に消えた。

「…クソッ!」

これもダメかと、レンは悪態をつく。

だが——

「…!」

ノイズの合間、一瞬だけ“それ”が映った。

影のような何か。

ほんの一瞬だけ、顔らしきものがフレームに現れた。

レンにははっきりとは見えなかったが、一つだけ確かな特徴がある——

ガラスのように光る歯を持つ、異様に広がった笑み。

レンは慌てて映像を巻き戻そうとする。が、その瞬間——

パァン!

録画装置が爆発した。

幸い手は無事だったが、これでまたもや手がかりは消えた。

残るのは、あの笑顔だけ。ほんの数フレームの幻影。

溜息をつきながら、レコーダーを机の上に置いた、そのとき——

コツ、コツ…

微かに足音が近づいてきた。

「…誰だ?!」

レンはナイフを構え、振り向く。

ゆっくりと、扉が開かれていく——

「…お前は…!」