天井扇の囁き

数時間後──吉野の「静かなる部屋」にて。

二人の影が静かに佇んでいた──書類が散乱した机の向こうに吉野、ソファにはだらりと背もたれて座る蓮。彼の視線は、ゆっくり回る天井扇に向けられ、部屋に漂う古い煙草の煙をかき混ぜた。

「先生…」

蓮はだるそうに呟き、言葉が途中で消えかけた。「俺の、過去の標的って…全部、人間だったのか...?」

以前は気にも留めなかったが、紅からの問いが蓮を根底から揺るがしていた。深く、自分が何者を殺してきたのか、わからなくなっていた。中には、彼女のような──人間でない存在が混じっていたのではないか?

「なんだその質問は?」

吉野は舌打ちした。「もちろん違う。全部だ! 人の皮をかぶった“鬼”だ!」

蓮はその言葉に目を見開いた──意味を理解するよりも早く。

「――いや、ていうか、比喩じゃなくて、文字通りの話だよ」

蓮はため息をつき、目を閉じた。

ただの疑問だったはずなのに、今では心の底で膨れ上がり、自分を食い尽くすほど引っかかっていた。

「おまえ…」

吉野の反応は、予想以上に鋭かった。

書類をめくる手がピタリと止まり、小さく震えた。いつもの穏やかな顔色が消え、たちまちに老け込んだように見えた。

「おまえ、まさか…アイツに会ったのか?」

「え?」蓮は瞬いた。「ちょ、先生…知ってたのかよ!?」

「シーッ!」

吉野はほとんどパニックだった。

即座に蓮の口元を抑え、部屋の隅々を見回した。通気口も、天井扇も、すべてを──盗聴器か、隠しカメラか? その様子に蓮は思わず息を飲んだ。吉野は、まったく冷静ではなかった。

蓮が今まで見たことのない顔だった。

やがて吉野は視線を静め、引き出しを開けた。そして、白い文字でこう書かれた黒いフォルダを取り出した。

CONFIDENTIAL

ゆっくりと蓮に手渡す。

「…これは何だ、先生…?」

蓮はそれを受け取り、そっと開いた。

「読め」

吉野は重く言った。瞳には怯えが滲んでいた。「彼らのことは…声に出して話すな。昼間ですら、だ。」

「...?」

興味と恐怖にかられ、蓮はファイルを開いた。

そこには「暗殺者」の名簿が綴られていた。市井の者ではない──蓮と同じ仕事を担っていた者たちだ。

内容に一貫性は見えなかった。しかし、プロファイルの末尾を読むと…ある共通点が浮かび上がった。

全員、任務失敗の直後に消息を絶っていた。生還できなかった。重傷を負ったか、音信不通──そのまま消えていたのだ。

「彼らが消える直前に、皆が口にしたのは…」

吉野は声を潜め、机の上の手を見つめながら、どこか遠くを思うように俯いた。

「任務失敗した」

「血の色が変だった」

「人間じゃなかった」

「…最後の言葉は、昨日のことのように覚えている」

彼は葉巻をくわえ、煙を吹き出し続けた。

「ホズキ──お前の前のエースでもあったが──彼は七十七件目の任務の後、行方不明になった。…彼も最後に俺にこう言った…」

蓮は吉野の言葉を待ち、顔を上げた。

「“壁が瞬いた”──と」

その言葉に、蓮の背筋が凍りついた。

表現こそ違っても、感覚も違和感もすべて一致していた。

「でも、壁って瞬かないよな...?」蓮は半信半疑で訊ねた。

「馬鹿か、お前は? 壁には耳があるって言うだろ? 目があってもおかしくない」

吉野は皮肉っぽく笑った。

蓮は目を見開いた。――壁に並ぶ無数の“目”が、同時に瞬きをする光景が脳裏に浮かんだ。

「…!!!」

鳥肌が腕を走った。

「俺はな──あの“彼ら”に大切な仲間を何人も奪われた。何者なのかを突き止めようとした。……だが、その一秒一秒を後悔した」

吉野は表情を曇らせ、声を低く落とした。

“Veiled Ones(ヴェールド・ワンズ)”──彼らはそう名乗っている

「Veiled…?」蓮はつぶやいた。「“覆い隠された者”って意味か? ……なんか、ぴったりだな」

その存在を認識したのは、昨日、彼女を殺そうとしたときがはじめてだった──名に相応しい、正体を隠した敵だった。

「紅も……ヴェールドの一人だってことか?」

蓮は尋ねた。

「なんだって?」吉野は顔を強張らせた。「今、何を言った?」

「紅が、俺の標的──あいつは絶対にヴェールドだよ」蓮は冷静に話し続けた。「昨夜、あいつを暗殺しようとした。五発撃った。でも死ななかった。しかも怪力──一撃で俺の骨が砕けた。ああ、そうだ──」

その瞬間、蓮の記憶が戻った。

「そうだ。ノートももらった。『明日使うから』って言ってたな」

蓮は壁掛け時計を見た。もうすぐ深夜だった――彼女が言った“明日”は、すぐそこに迫っていた。

『今開いても“明日”じゃないか?』

蓮はポケットからノートを取り出した。

しかし──その時だった。

ガタッ!

緊張が切れ、音が響いた。振り返ると、吉野が驚いて椅子の背もたれを倒し、書類が机から降り散っていた。

「馬鹿野郎!」

吉野は震える声で叫んだ。「なんで今まで言わなかった!?」

「え…?」

「黙れ、動くな!」吉野の声は凍っていた。緊迫、そして恐怖に満ちていた。「わかってないのか……? あのノート──“聴いてる”んだ!」

吉野の老いた骨が震えていた。本気で怯えていた。

「今すぐ出ろ──ノートを燃やせ!……読んじゃダメだ、絶対に!」

蓮には選択肢などなかった。

彼はゆっくりと立ち上がり、部屋を後にした。廊下の赤いカーペットの上で歩を止める。

手にある、何の変哲もないノートを見つめた。

『…聴いてる? 読まずに燃やせ?…』

恐怖ではなく、好奇心が胸に湧いた。

蓮は歩きながらポケットを探った。煙草は吸わないが、ライターは常に持ち歩いている──念のため。

ズボンのポケットに指が触れた。彼はライターを取り出し、蓋を開ける。

青い火が細く揺れた。

蓮はノートを炎にかざした。端が焦げて黒ずむ──だが、燃えなかった。わずかに変色しただけだった。

「…」

首をかしげる。何かがおかしい。

ライターをしまい、ノートを広げた。簡単に四つ折りが開かれた。

中央には、たった一行。

【 “静かなる部屋”は、もう安全ではない。】

「…!」

“静かなる部屋”──吉野のオフィス。暗殺者にとっての聖地。まさに今、自分が出てきた場所。

蓮の胃が締めつけられた。彼は振り返り──先生に知らせようと──後戻りしようとした。

しかし──何かが違っていた。

「え…?」

蓮は呟いた。「扉が…ない?」

廊下の奥──“静かなる部屋”の扉は、もうそこには存在していなかった。