「うっ…」
蓮はゆっくりと起き上がりながら呻いた。痛む頭が鼓動とともにじわじわと感覚を取り戻していく。
「ここは…?」
ぼそりとつぶやき、周囲を見渡した。
空はすでに高く、にぎわう繁華街の喧騒が遠くから聞こえてくる。無作為に伸びた路地の真ん中に、彼は横たわっていた――そして、ようやく見覚えのある場所だと気づいた。
「何が…あったんだ?」
問いかけるように呟きながら、蓮は立ち上がった。まだ頭蓋骨の奥がズキズキと痛む。
すると、昨夜の断片的で意味をなさない記憶がフラッシュバックし、胸がざわつき始めた。鼓動が速まり、アドレナリンが急激に体内を駆け巡る。
目に入る範囲を探るように、首をゆっくりと巡らせた。だが、そこには人影は一つもなかった。動いているのは、ブンブンと音を立てるエアコンの室外機と、散らばったゴミ袋だけ。
「ふぅ…」
蓮は長く息を吐き、神経を落ち着けようとした。
それでも手は震えていた。あの夜の恐怖は、まだ消えていなかった。
「そうだ…」
ふと思い出すように、蓮はポケットに手を入れてスマホを取り出した。師匠・吉野に連絡を取らなければならない。
「ん?」
だが画面を見ると、言葉を失った。画面はまだバグを抱え、フリーズしたまま、かすかに薄暗く光っているだけで、まったく反応しなかった。
「壊れたか...?」
舌打ち混じりにぼそりと呟き、蓮は使い物にならないスマホをポケットに戻し、路地を抜けて歩き始めた。目立たないよう人混みに紛れ、やがて姿を消した。
恐怖は胸に残ったままだが、彼の優先順位は変わらなかった。
数分後、古ぼけた小さなコインランドリーの前に立つ。
なぜか蓮は、吉野の「静かなる部屋」には戻らず、ターゲットの元へ向かっていた。昼間になったことで恐怖は多少和らいだが、昨夜の記憶は依然として鮮明だった。
「これを解明しなければ、前に進めない…」
そう自分に言い聞かせて、蓮は店内へ足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ~!」
明るい声に振り向くと、パートの女子店員が笑顔で立っていた。
「お洗濯のお引き取りですか?」
その言葉に、蓮は彼女の顔をじっと見つめた。近隣の美術系学校に通う、ごく普通の大学生。紅とは仕事上の関わりしかなかった。
「違います」
蓮は静かに答えた。
「そちらの店長――紅さんに会いに来ました」
「あ、紅さんのお知り合いですか?」
パートの彼女は満面の笑みを向けてこう言った。
「少々お待ちください。お呼びいたしますね」
怪しむ素振りすら見せず、蓮の名前も目的も尋ねなかった。その無頓着さは、かえって蓮にとって都合がよかった。
彼は動かず、コートのポケットに手を入れたまま、その場に立ち続けた。
視線は店内を漂い、点在する客たちが日常会話に興じているのが見えた。稼働音を低く唸らせる洗濯機。その奥で時折響く、乾燥機の軽い騒音。
やがて、奥の階段から足音が降りてきた。
「蓮くんだね」
その声は鐘の音のように響き、間違いなく紅のものだった。
「昨夜の件を話しに来たんでしょ。じゃあ、静かな場所に行こうか。ついてきて」
彼が口を挟む間もなく、紅は当然のように階段へと蓮を促した。
驚きと疑問が胸を巡る――昨夜、彼女を殺そうとしたのに、紅はまるで来客を迎えるかのような態度だった。
店員はその様子を見送ると、興味津々に呟いた。
「紅さん、彼氏いたんだ! 彼、意外とイケメンじゃない?」
蓮は紅に連れられ、二階の控えめなキッチン兼ダイニングに案内された。
「ゆっくりしていって」
紅はカウンターの後ろに立ちながら言った。
「お茶にする? コーヒー?」
「…お…お茶で」
蓮は答えながら、視線の片隅でさりげなくナイフに手を伸ばした。
椅子に腰を下ろし、ナイフを腿の上にそっと置きながら、紅を警戒する。
沈黙が続いた。その静寂の中、蓮が口を開いた。
「君は……誰なんだ?」
「違う」
紅はお茶を沸かしつつ、カジュアルに答えた。
「その質問、間違ってるよ、斬崎(きりさき) 蓮(れん)。聞くべきは――『あなたは誰なの?』」
蓮は言葉に詰まった。
紅が直接答えるつもりがないのは明白だった。彼が紅を信じていないように、彼女もまた蓮を信用していないのだろう。それでもお茶に招いたのは、なぜなのか。
「あなたは…人間なのか?」
蓮はさらに食い下がった。
やかんが吹き上がり、紅は肩をすくめて湯を注いだ。
「人間かどうかなんて、わからないよ。あなたと同じくらい、人間かもしれないし」
「嘘だ」
蓮は断言した。
「俺は、人間だったら心臓や頭を撃たれちゃKillされる。そんなこと、人間にはできない」
その発言に、紅は黙ってお茶を淹れていたが、やがてしずしずとトレイを持って戻ってきた。
ティーポットと二つのカップ。蓮の分を目の前に、もう一つは彼女の向かいに置かれた。
紅はさらっと彼にお茶を注いだ。香り高く、濃い色合い。明らかに良質な茶葉だった。安物ではない。
だが、蓮は飲まなかった。紅を信用できなかったからだ。
紅はティーカップを傾けながら、考えるように呟いた。
「人間、人間じゃない…一体、何が違いを作るの?」
「それは…」
蓮は言いよどんだ。
だが彼女はじれったそうに口を開いた。
「暗殺者No.1こと斬崎蓮。今まで何人殺した?」
「…!」
蓮は衝撃を受けた。
もちろんターゲットは全員“人間”だと思っていた。犯罪者だろうと、皮をかぶった化け物だろうと、多くの場合、身体は人間だ。非道な存在であっても。
それなのに紅は――頭を撃たれても生き延びる彼女自身が、まるで「人間」の皮をかぶった何かのようだった。
蓮の思考が舞い上がる。
彼は眉を寄せ、ティーカップを一気に飲み干した。適度な温度が舌を刺したが、もはや関係ない。毒でも構わなかった。
「ごちそうさま」
蓮は立ち上がり、そう呟いた。
「待って」
紅が差し出す手で、蓮は立ち止まった。
「これ、受け取って」
小さな折りたたまれたメモが手渡された。蓮は警戒しながらも、受け取った――言われれば逆らえなかった。
「受け取らないと、後悔するよ。明日、絶対に必要になる」
紅は続けた。
蓮は小さく頷き、メモを握りしめた。そのまま振り返り、後ろを振り返ることなく店を出ていった。
紅はゆっくりとお茶を飲みながら、彼の背中を静かに見送っていた。その表情は――微笑をたたえつつも、読み取れないままだった。