瞬きするな、息をするな

違和感を覚えながらも、それはただの気のせいだと無理やり納得し、レンは走り続けた──路地を抜け、正しい道へ戻ろうと。

だが、気づけば彼はもう、東京の繁華街にはいなかった。

彼が駆け抜けていたのは、半ば廃墟と化した住宅街の裏道だった。現在地の近くにこんな場所があった記憶はない。遠くには古びた線路が見え、ガタガタと老朽化した列車の音が聞こえていた。

だが、その「意図された」音以外には、何も聞こえなかった。

風の音も、人の声も、交通音すらも──車も歩行者もいない。まるで、自分だけが存在する小さな世界に閉じ込められたような感覚。周囲を包む闇は次第に圧迫感を増し、レンが生涯「親友」と思っていたことに、初めて恐怖を感じた。

走り続けるうちに、もう一つ異常なことに気づいた。

街灯の下を通るたびに、必ず──例外なく、約五秒間だけ、明かりがちらつき、そして元に戻る。その繰り返し。

何かが本当におかしい──その確信が心の中に根を張り始めた。

「...え?」

ふと、ガラス張りの店のウィンドウに目をやると、さらに異変があった。映っていた自分の姿が──動きも、ポーズも、何も一致していなかった。まるで別の存在がそこに立っているようで、一瞬だけ視界にとどまった後、ふっと消えた。

レンの背筋に寒気が走った。今ほど家に帰りたいと強く思ったことはなかった。

だが、そこは家からは程遠い場所だった。歯を食いしばり、悲鳴を上げる脚を無理に動かし、ただ走った。

時間の感覚を失い、呼吸は荒く乱れていく。足取りも重くなり、そして──どこを見ても、窓ガラスや水たまりに映る反射像が、ほんのわずかに「ズレて」いた。

「くそっ…なんだよ、これ…」

レンは心が折れかけていた。誰もいない、という事実が不意打ちのように心を打ち、絶望へと導いていく。恐怖に呑まれていく。

もはや走ることもできなかった。脚は疲労で震え、ただ一歩ずつ、どこかへ──ここではないどこかへ──進むしかなかった。

そのときだった。

ふと、視線が引き寄せられた。

反射的な動作。目で何か速いものを追うように、自然と首が右へ向いた。

そして彼は、かすかな希望を見出した。

二ブロック先に、誰かが立っていた。

そのシルエットから判断するに、それは子供だった──だが、それでも「誰か」だった。

藁にもすがる思いで、レンはその影に向かって進む。近づくにつれ、それがしゃがみ込み、地面に円を描いている少女だとわかった。

彼女は茶色がかった葉の模様が入った、純白の古い着物を着ていた。髪型はボブカットで、その姿は遠くから見るとまるで「てるてる坊主」のようだった。

レンはゆっくりと歩み寄る。

だが、近づくほどに、また「違和感」が生まれる。──まるで標的の家を出た直後の、あの時のように。

理由も証拠もない。ただ、本能が告げる異常。

彼は足を止め、7歳か8歳ほどの少女に視線を向け、じっと観察した。

──そして、違和感の正体に気づいた。

彼女の淡い茶色の目が、あまりにも「老いていた」。

まるで何百年も生きてきたかのような、知識と経験に満ち、そして非人間的な冷たさをたたえていた。

レンはごくりと喉を鳴らす。恐怖と疲労で心臓が激しく脈打つ。

それでも、彼は自分の直感が間違っていることを願った。目の前の少女が「ただの人間」であると信じたかった。

「なあ、お嬢ちゃん...?」

彼は慎重に声をかけた。

「こんなところで、何してるんだ?親御さんは?」

その瞬間、少女の視線がピクリと動いた。まるで電気が走ったかのように、異様な速度でこちらを見た。

レンの肩が跳ねた。あまりに不自然な動きに、思わず体が反応した。

「いないよ」

「…え?」

だが意外なことに、少女は答えた。感情のない、平坦な声だったが──人間のように返答した。

「夜も遅いぞ。親に外に出ちゃダメって言われなかったか?」

レンはもう一度問いかけた。少しずつ緊張が和らいでいった。

──そうだ。さっきの紅との遭遇で、神経が過敏になってるだけ。超常現象なんて、あるわけが──

「言われたよ」

少女はそう言った。

「だから隠れてるの。あの人から。…あなたも、隠れたほうがいいよ」

「…あの人?」

レンの腕に鳥肌が走った。

異常に気づきながらも、彼は「普通」を装った。コートのポケットに手を入れ、無言で少女の横を通り過ぎようとした。もう彼女を見ない。話さない。ただ歩き去ろうと。

──そして、彼女との距離が1メートルほどになったとき。

少女が、ささやくように警告した。

「…瞬きしちゃダメ。息もしないで」

「…!」

意味はわからなかった。だが、それが限界だった。

レンは走った。限界を超えて脚を動かした。

ただ逃げた。どこにいるかもわからず、時間の感覚もなくなり、ただ、走り続けた。紅の家から、あの少女から、すべてから。

「ハァ…ハァ…ハァ…」

息は荒く、苦しかった。呼吸のたびに、冷気が体の奥へ染み込んでくる。まるで、自分が「やってはいけないこと」をしているかのような感覚。

視界がちらつく。縁が暗くなっていく。疲労──いや、恐怖が支配し始めていた。

些細な物音や光にも過敏に反応し、街灯のちらつきにすら跳ね上がる。

ブズッ!

「うわっ!」

突然、ポケットの中で何かが震えた。驚いたレンが叫び声を上げる。だがすぐに、それがただのスマートフォンの通知だと気づき、安堵と同時に怒りが湧いた。

「くそ…心臓が止まるかと思った…」

すぐさまスマホを取り出した。そして、反射的にバッテリー残量に目がいった。

43%。だが──それだけではなかった。

彼のスマホはデュアルSIM仕様だったが、どちらも圏外。データ通信もWi-Fiも、すべて接続不能。

「は…? 圏外…?」

そう呟きながら、メールを開いた。

最初は異常に気づかなかった。──メッセージを読むまでは。

送信者なし。返信先なし。表示されているのは、たった一行の文だけ。

「見られている」

その瞬間、メッセージは自動で閉じられた。

次の瞬間、画面がバグり始め──完全にフリーズした。電源ボタン、音量、タップ──何をしても反応しない。

「ちょ…待てよ…」

──そして気づく。

「圏外なのに…なんで受信できた…?」

思考の途中で、レンの背筋が凍る。

本能が警鐘を鳴らす。まるで、獲物を狙う捕食者に睨まれているかのような感覚。

彼は辺りを見回した。視線が泳ぎ、呼吸が浅くなり、冷や汗が顔と背中を伝う。

──そして、見つけた。

通りを挟んだ向かいのビル、二階の窓。

そこに立っていたのは、見覚えのある影。

真紅の髪と、黄金の瞳を持つ、美しいシルエット。背後の照明がちらつき、彼女の姿を断続的に照らす。

「…紅…?」

レンは、声を震わせながら呟いた。

その瞬間、彼女は手を動かした。

ゆっくりと、窓に手のひらを当てた。

そして──

パリンッ…!

空が、街灯が、ビルが──レンの「世界」のすべてが、ガラス細工のように音を立てて、割れ始めた。