堺。蔵屋敷の奥にて、ひとつの命が伝わった。
「売れ。……“それ”を、売れ」
金座を経由せぬ、裏の帳簿。
売りに出されたのは、堺に流通する織田債。織田家の台所を支える信用証書である。
しかし、発注者の名はない。
仲介人の背後に、さらに別の仲介人。その先にまた影。すべては柘植の手による“断面のない構造”であった。
市に放たれた空売りの札は、瞬く間に値を崩した。
「限りにて候」
買い支えが入る。
何者かが、底値で全てを拾い上げた。市は、ひとつ息をつく。
が、その一息が終わる前にまた売りが舞う。
その源は違う名、違う商家。だが、手口は同じだった。
初日で二度、二日目に三度。
織田債は“買われては売られ、売られては沈む”を繰り返し、まるで 底が抜けた樽 のように信を失っていった。
市井の男が言った。
「……あれは、買えば落ちる札じゃ」
人々の心に、値よりも先に“流動性の消失”という恐怖が根を張った。
この策は、現代で言うところの:
ショートセリング(空売り)とラダー戦略:異なる価格帯と時期に連続的に空売りを浴びせ、買い支えの反動を吸収しつつ、次の下落を呼び込む。
エージェントベースモデル:無数の“独立した”代理人を通じて売買を小口分散させ、追跡不能な売り手像を構築する。
価格弾力性と反応時間の差:市場の心理的ラグを測り、“売り”と“買い支え”の間に必ず恐慌が挿入されるよう設計する。
自己触媒反応系:一度目の下落が次の下落を呼ぶ、いわば“市場内での連鎖的自己増殖”を誘導するアルゴリズム。
柘植が仕組んだのは、「恐慌という現象」の人工的発生だった。
空売りの連打は「幻影」でありながら、経済の骨を凍らせる真実となった。
町に風聞が飛ぶ。
「京でも“織田債”が戻らぬらしいぞ」
「値が戻っても、また落ちる。……札が札でなくなる」
それは、もはや値の問題ではなかった。
“信”の証明が、市場の中で剥がれ落ちてゆく。
安土城、午前未の刻。
堺よりの早馬が城門を駆け抜ける。伝えられた文は短く、ただ一語。
「限りにて候」
織田債札、値を保てず。市場にて底を突いた。
信長は即座に評定を招集した。
堀、丹羽、羽柴、柴田、明智、村井。主だった将たちが、重く沈む空気の中、広間に並ぶ。
膝を正す間もなく、信長が鋭く丹羽に声を飛ばす。
「長秀、初動は如何した。なにゆえ、兆しの段に手を打たなんだ」
丹羽は平伏したまま、明瞭な答えを返せぬ。
「堺・京の商は気まぐれに候。いつものことかと……」
「たわけ、たわけ、たわけ、この三度たわけが」
信長の声が大広間を震わせた。
「市が崩れれば家もまた崩れると、まだ分からぬのかこのたわけめ。札が斃れれば、刀など鈍となるのだ」
場に凍りつく沈黙。誰もがこの崩壊の深さを、言葉にできぬまま立ち尽くしていた。
そのとき、羽柴秀吉が一歩進み出る。
口を引き結んだまま、額を畳につけ、はっきりと告げる。
「当家の金蔵を、空にしてくだされ。全てを堺へ。買い支えにございます」
信長は秀吉を睨むように見下ろし、やがて短く、吐き捨てた。
「よい。使え。すべてを投げ打て」
その一言で、議は終わった。
織田の金蔵は即時に開かれ、金を積んだ籠が順次、堺へと走る。
だがそれは、もはや“戦”ではなかった。
敵の姿もなければ、進むべき道筋もない。
ただ、瓦解する信の地盤を前に、武門の頂が金を以って土台を支えようとしていた。
黄金が走るたび、織田の矜持は一枚、また一枚と剥がれ落ちていった。
安土を発った羽柴秀吉は、馬を替えながら昼夜を分かたず堺へ急いだ。
随行には金蔵より運び出された百の箱。すべて、純銀と金粒であった。
到着と同時に、堺町奉行を通じて三か所へ触れが打たれる。
堺、京、伏見、すべての市場と両替商に向けて。
『織田家御判の債札、額面の五分上乗せにて現銀引替え候。
期は定めず、量の限りもこれなし。市中の札、全て買い戻す構えに候。』
触れの文は、太政官の布令よりも強く市場に響いた。
銀座の取次を経て、商人たちは慌てて札を携え集まりだす。
秀吉はみずから町の商家を回り、名のある豪商には直々に頭を下げた。
「一つ、頼みとうございます。大口の買い上げ、そなたの手で願えまいか。
謝礼は別途、そちらも現銀にて弁ずる所存にございます」
老舗の商家も、黄金の迫力に気圧され、うなずくほかなかった。
表向きには“札の信用維持”、しかしその実は“金の暴力”による強制的な買戻し。
堺の町では、銀札の山と引き替えに、金箱が次々と空になっていった。
同じ文言の触れは、京の五条大路、伏見の船宿町にも掲げられた。
その姿は豪奢にして、同時に哀切を帯びていた。
織田の札を、織田自身が買い戻す。それは自らの信用を自らが担保にしたに等しい。
だが、商いの風は冷ややかだった。
「何ゆえ、そこまでして……」
「それほど札が怪しいのか……」
人々は札ではなく、噂と風向きを見ていた。
そして風は、確かに“西より”吹いていた。
安土の奥御殿、秀吉が堺へ下りた直後、信長は再び評定を召した。
召し出されたのは、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、堀秀政、村井貞勝ら、秀吉を除いた重臣たちであった。
座の空気は重く、床にしみ込んだ沈黙すらも、金の臭いが染み込んでいるようだった。
光秀がそっと口を開いた。
「……買い支えは効果を見せましょう。ですがこの混乱の出処がわからねば、また同じことが起こりまする」
「出処は、わしの腹にある」
信長の声音は低かったが、誰もがそれが“命”を帯びていることを知っていた。
「本願寺の売僧じゃ。伊賀の土百姓じゃ。両者つながっておる。狙いは、金ではない“織田”そのものだ」
丹羽長秀が手を組み、口を開く。
「だとしても……殿。確証はござらぬ。誰が、どこから流したか、探りを……」
「探ってる間にわしらが潰れるわ」
信長の声が、御殿の壁を揺らした。
「だが……証拠が……」と長秀が続けかけた瞬間、信長が振り向いた。
「証拠を集めてるうちに、我らは飢え、民は逃げ、城は売られる。お前はそれでも構わんのか」
沈黙。誰も答えられなかった。
信長はひと息に言い放った。
「伊賀を焼け。全て焼け。草の根まで探り、影一つ残すな。これは上意じゃ」
勝家が低く頭を垂れた。光秀がうなずいた。堀が素早く筆を執った。
ただ、丹羽だけがなおも迷いを顔に残していた。
炎は燃えていた。信長の目もまた、それに劣らぬ火を帯びていた。
そこにあったのは、論理ではない。
いや、他の者にはそう見えたにすぎぬ。
彼にとっては、既に幾つもの点が線となっていた。
堺、京、伏見に同時に走った風聞。
買い注文に対して一斉に仕掛けられた信用売り。
触れの直後に集中的に債が吐き出され、数珠つなぎに落ちる相場。
この速度、この緻密さ、この意図。
政ではない。軍でもない。これは、謀である。
誰かが網を張り、金を以て織田を喰らわんと牙を研いでいる。
その意志と手腕とを併せ持つは、既に限られていた。
それが「本願寺」でなければならぬという証拠は、どこにもなかった。
だが、信長の中では確実に“そこ”に収束した。思考の閃きが、雷のように脳を貫いた。
「あの売僧どもは、まだ終わっておらぬ。」
「伊賀は既に使われておる。」
「奴らは、戦を刀ではなく札で仕掛けてきた。」
理路は不明。証拠は皆無。
だが、これは“読める”という類のものではない。“見える”のである。
それが支配者・織田信長の特性であり、恐るべき異能であった。
そしてその直感が告げていた。
今、叩かねば滅ぶ。今なら、間に合う。
そこにあったのは、論理ではない。支配者の直感。火急にして、最短にして、最恐の選択だった。