第三話

堺。蔵屋敷の奥にて、ひとつの命が伝わった。

「売れ。……“それ”を、売れ」

金座を経由せぬ、裏の帳簿。

売りに出されたのは、堺に流通する織田債。織田家の台所を支える信用証書である。

しかし、発注者の名はない。

仲介人の背後に、さらに別の仲介人。その先にまた影。すべては柘植の手による“断面のない構造”であった。

市に放たれた空売りの札は、瞬く間に値を崩した。

「限りにて候」

買い支えが入る。

何者かが、底値で全てを拾い上げた。市は、ひとつ息をつく。

が、その一息が終わる前にまた売りが舞う。

その源は違う名、違う商家。だが、手口は同じだった。

初日で二度、二日目に三度。

織田債は“買われては売られ、売られては沈む”を繰り返し、まるで 底が抜けた樽 のように信を失っていった。

市井の男が言った。

「……あれは、買えば落ちる札じゃ」

人々の心に、値よりも先に“流動性の消失”という恐怖が根を張った。

この策は、現代で言うところの:

ショートセリング(空売り)とラダー戦略:異なる価格帯と時期に連続的に空売りを浴びせ、買い支えの反動を吸収しつつ、次の下落を呼び込む。

エージェントベースモデル:無数の“独立した”代理人を通じて売買を小口分散させ、追跡不能な売り手像を構築する。

価格弾力性と反応時間の差:市場の心理的ラグを測り、“売り”と“買い支え”の間に必ず恐慌が挿入されるよう設計する。

自己触媒反応系:一度目の下落が次の下落を呼ぶ、いわば“市場内での連鎖的自己増殖”を誘導するアルゴリズム。

柘植が仕組んだのは、「恐慌という現象」の人工的発生だった。

空売りの連打は「幻影」でありながら、経済の骨を凍らせる真実となった。

町に風聞が飛ぶ。

「京でも“織田債”が戻らぬらしいぞ」

「値が戻っても、また落ちる。……札が札でなくなる」

それは、もはや値の問題ではなかった。

“信”の証明が、市場の中で剥がれ落ちてゆく。

安土城、午前未の刻。

堺よりの早馬が城門を駆け抜ける。伝えられた文は短く、ただ一語。

「限りにて候」

織田債札、値を保てず。市場にて底を突いた。

信長は即座に評定を招集した。

堀、丹羽、羽柴、柴田、明智、村井。主だった将たちが、重く沈む空気の中、広間に並ぶ。

膝を正す間もなく、信長が鋭く丹羽に声を飛ばす。

「長秀、初動は如何した。なにゆえ、兆しの段に手を打たなんだ」

丹羽は平伏したまま、明瞭な答えを返せぬ。

「堺・京の商は気まぐれに候。いつものことかと……」

「たわけ、たわけ、たわけ、この三度たわけが」

信長の声が大広間を震わせた。

「市が崩れれば家もまた崩れると、まだ分からぬのかこのたわけめ。札が斃れれば、刀など鈍となるのだ」

場に凍りつく沈黙。誰もがこの崩壊の深さを、言葉にできぬまま立ち尽くしていた。

そのとき、羽柴秀吉が一歩進み出る。

口を引き結んだまま、額を畳につけ、はっきりと告げる。

「当家の金蔵を、空にしてくだされ。全てを堺へ。買い支えにございます」

信長は秀吉を睨むように見下ろし、やがて短く、吐き捨てた。

「よい。使え。すべてを投げ打て」

その一言で、議は終わった。

織田の金蔵は即時に開かれ、金を積んだ籠が順次、堺へと走る。

だがそれは、もはや“戦”ではなかった。

敵の姿もなければ、進むべき道筋もない。

ただ、瓦解する信の地盤を前に、武門の頂が金を以って土台を支えようとしていた。

黄金が走るたび、織田の矜持は一枚、また一枚と剥がれ落ちていった。

安土を発った羽柴秀吉は、馬を替えながら昼夜を分かたず堺へ急いだ。

随行には金蔵より運び出された百の箱。すべて、純銀と金粒であった。

到着と同時に、堺町奉行を通じて三か所へ触れが打たれる。

堺、京、伏見、すべての市場と両替商に向けて。

『織田家御判の債札、額面の五分上乗せにて現銀引替え候。

期は定めず、量の限りもこれなし。市中の札、全て買い戻す構えに候。』

触れの文は、太政官の布令よりも強く市場に響いた。

銀座の取次を経て、商人たちは慌てて札を携え集まりだす。

秀吉はみずから町の商家を回り、名のある豪商には直々に頭を下げた。

「一つ、頼みとうございます。大口の買い上げ、そなたの手で願えまいか。

謝礼は別途、そちらも現銀にて弁ずる所存にございます」

老舗の商家も、黄金の迫力に気圧され、うなずくほかなかった。

表向きには“札の信用維持”、しかしその実は“金の暴力”による強制的な買戻し。

堺の町では、銀札の山と引き替えに、金箱が次々と空になっていった。

同じ文言の触れは、京の五条大路、伏見の船宿町にも掲げられた。

その姿は豪奢にして、同時に哀切を帯びていた。

織田の札を、織田自身が買い戻す。それは自らの信用を自らが担保にしたに等しい。

だが、商いの風は冷ややかだった。

「何ゆえ、そこまでして……」

「それほど札が怪しいのか……」

人々は札ではなく、噂と風向きを見ていた。

そして風は、確かに“西より”吹いていた。

安土の奥御殿、秀吉が堺へ下りた直後、信長は再び評定を召した。

召し出されたのは、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、堀秀政、村井貞勝ら、秀吉を除いた重臣たちであった。

座の空気は重く、床にしみ込んだ沈黙すらも、金の臭いが染み込んでいるようだった。

光秀がそっと口を開いた。

「……買い支えは効果を見せましょう。ですがこの混乱の出処がわからねば、また同じことが起こりまする」

「出処は、わしの腹にある」

信長の声音は低かったが、誰もがそれが“命”を帯びていることを知っていた。

「本願寺の売僧じゃ。伊賀の土百姓じゃ。両者つながっておる。狙いは、金ではない“織田”そのものだ」

丹羽長秀が手を組み、口を開く。

「だとしても……殿。確証はござらぬ。誰が、どこから流したか、探りを……」

「探ってる間にわしらが潰れるわ」

信長の声が、御殿の壁を揺らした。

「だが……証拠が……」と長秀が続けかけた瞬間、信長が振り向いた。

「証拠を集めてるうちに、我らは飢え、民は逃げ、城は売られる。お前はそれでも構わんのか」

沈黙。誰も答えられなかった。

信長はひと息に言い放った。

「伊賀を焼け。全て焼け。草の根まで探り、影一つ残すな。これは上意じゃ」

勝家が低く頭を垂れた。光秀がうなずいた。堀が素早く筆を執った。

ただ、丹羽だけがなおも迷いを顔に残していた。

炎は燃えていた。信長の目もまた、それに劣らぬ火を帯びていた。

そこにあったのは、論理ではない。

いや、他の者にはそう見えたにすぎぬ。

彼にとっては、既に幾つもの点が線となっていた。

堺、京、伏見に同時に走った風聞。

買い注文に対して一斉に仕掛けられた信用売り。

触れの直後に集中的に債が吐き出され、数珠つなぎに落ちる相場。

この速度、この緻密さ、この意図。

政ではない。軍でもない。これは、謀である。

誰かが網を張り、金を以て織田を喰らわんと牙を研いでいる。

その意志と手腕とを併せ持つは、既に限られていた。

それが「本願寺」でなければならぬという証拠は、どこにもなかった。

だが、信長の中では確実に“そこ”に収束した。思考の閃きが、雷のように脳を貫いた。

「あの売僧どもは、まだ終わっておらぬ。」

「伊賀は既に使われておる。」

「奴らは、戦を刀ではなく札で仕掛けてきた。」

理路は不明。証拠は皆無。

だが、これは“読める”という類のものではない。“見える”のである。

それが支配者・織田信長の特性であり、恐るべき異能であった。

そしてその直感が告げていた。

今、叩かねば滅ぶ。今なら、間に合う。

そこにあったのは、論理ではない。支配者の直感。火急にして、最短にして、最恐の選択だった。