第四話

上意が下知されたのは、安土城評定の夕刻。

そして軍の出発は、その夜のうちに始まった。

出陣の号令が各城に伝えられたのは、太鼓三つ。信長の本意を悟った各将は、準備を待たず馬に跨った。

織田の総勢は四万人を超えた。

第一次の敗戦を踏まえ、今回は「伊賀を国ごと滅ぼす」ための編成である。

主将:織田信雄

名目上の総大将だが、実質は信長の遠隔統制によって動く。

柴田勝家軍:北伊賀方面(伊賀北部・島ヶ原経由)

兵数:一万

出発地:長浜城 → 朽木越え → 近江・甲賀を経由して北から侵攻。

丹羽長秀軍:東伊賀方面(甲賀から青山峠)

兵数:八千

出発地:坂本城 → 水口 → 甲賀 → 青山峠 → 伊賀東部侵攻。

明智光秀軍:西伊賀方面(奈良・月ヶ瀬経由)

兵数:七千

出発地:亀山城 → 奈良 → 月ヶ瀬 → 伊賀西部へ回り込み包囲。

堀秀政軍:南伊賀(大和から針・比奈知峠)

兵数:五千

出発地:大和郡山 → 針 → 比奈知峠 → 南から締め上げる。

筒井順慶・滝川一益混成軍:後詰・平定部隊

兵数:三千

出発地:郡山城・伊勢長島 → 各方面の掃討と制圧。

織田信雄直属軍(実働指揮:滝川雄利)

兵数:一万強

拠点:伊賀口(関宿より西入) → 総攻撃の中核。

伊賀は高地・山間に囲まれた難所であり、通常は不可能とされるが、信長は狂気じみた物量による包囲殲滅を選んだ。六方面からの同時進入、進軍と火攻めを組み合わせ、兵糧道・退路を断ち、隠れ里すらも封鎖した。

行軍中の全兵士には、「一木一草とて残すな」との命が下された。

・民家はすべて焼き払われた。

・山林には火が放たれ、野伏や潜伏の忍を炙り出した。

・逃げる者があれば首を刎ね、残る者は縛って奴隷として売られた。

・村落の井戸には毒が流され、穀倉は塩で埋められた。

評定から出陣まで、わずか五刻(約10時間)。

この出撃こそ、信長が「金に仕掛けられた戦」に対し、「火で応じた」瞬間であった。

焦土とは、兵法ではなく怒りの形である。

織田信長が動かした兵は四万超。

この大軍勢が押し寄せたのは、現在の三重県伊賀市中心部、かつて「上野」と呼ばれた地域である。

現代に換算すれば、伊賀市市街地、すなわち上野城跡を中心とする市街部の面積はおおよそ8平方キロ(約800ヘクタール)。

この地に四万の武装兵が一斉に踏み込めば兵士一人あたりの面積は、わずか20㎡弱。

それはつまり一人が畳12枚分程度のスペースに詰め込まれ、槍がぶつかり、馬が暴れ、人の叫びがこだまする、行軍でも陣でもなく、「肉が土地に張り付いた状態」だった。

しかもそれが、火をつけながら進む。

道は火に挟まれ、林は煙に閉ざされ、田は蹂躙され、家々は爆ぜた。

地鳴りのような足音と怒声、そこに響くのは戦鼓でも号令でもなく、「どこに逃げた」「斬れ」「焼け」それだけだった。

火と鉄と金に支えられた、戦国の巨大な意思が、一国を踏み均しに来たのである。

伊賀は応戦の構えすら整える間もなかった。

四万の織田軍は、信長の命を受けたその日、京・伊勢・近江の三方より即座に動き、翌朝には境を越えた。武器を手に取るより早く、村は焼かれ、里は潰された。

これは戦ではなかった。勝敗を競うような類の出来事ではない。

それは、災いであり、罰であり、天変に近かった。

百地三太夫。名うての上忍として諸国に知られたその男も村ごと呑まれた。

斬られたのか、焼かれたのか、逃げた末に喉を掻き切ったのか、それすら分からぬ。

ただ、信長の軍勢が去ったあと、彼のいたという里に、人の形をしたものは何一つ残されていなかった。

名もなき女たちが焼かれ、子らが槍で突かれ、老いた者たちは追い立てられた末に野に倒れた。忍びの里である以前に、そこは暮らしの地だった。だが、そんな人間の理屈が、この鉄の雨の前では何の意味も持たなかった。

唯一、難を逃れたのは、服部半蔵と柘植九郎右衛門の二人である。

彼らは織田経済の崩壊に間を置かず、織田領内で一揆を一斉蜂起させしめんと、本願寺にて密儀を進めていた。

この日、彼らは戦禍の煙を大坂の楼上より眺めていた。

煙は南東に上がっていた。故郷が焼かれていると、柘植は何も言わずに気づいた。

だが、顔色一つ変えなかった。

忍びの誇りも、血の絆も、全ては「信長を潰す」という一点のために燃やされねばならなかった。