本願寺。
顕如の私室に届いたのは、伊賀全土が織田軍によって掃討されたという報だった。
顕如は巻物から目を上げることなく、ただ一言。
「……さてこそ信長め、悪運が強い」
視線の先には仏涅槃図。釈尊が安らかに横たわる姿に、焦土となった伊賀の幻影を重ねることはなかった。
隣に控える下間頼廉が、軽く舌打ちするように笑った。
「三千貫……ちと高うつきましたな。まあ、それだけの値はありましたか」
「信長め、唐天竺の魔神の加護でも受けておるのやも知れぬ」
顕如がゆるりと首を回し、格子越しの夕光を見やった。
「いずれ、神仏の裁きも下ろう……」
言葉は穏やかだったが、そこに怒りも、悲しみも、同情もなかった。
下間がふと気づいたように、
「……あの伊賀者たちはいずこに」
服部半蔵と柘植九郎右衛門はいつの間にか御坊から姿を消していた。
声をかけられることも、礼を述べることもなかった。
彼らはただ、空気のように、音もなくその場を去っていた。
顕如はそれについて何も言わず、ただ茶を一口すする。
「さて……この後は、どう転ぶものやら」
冷たい風が、格子から吹き込んできた。
伊賀は燃え尽きた。だが、戦は終わっていない。
それを知っていたのは、本願寺の者たちではなかった。
去った者たちこそが、次なる火を抱えていた。
伊賀の乱は、戦ではなかった。
それはただ、殲滅であった。応戦の備えも整わぬ伊賀は、四万の織田軍に踏み潰され、野も里も焼かれ、男は斬られ、女は攫われ、子は潰えた。百地三太夫をはじめとする者たちも、その名も遺さぬまま土と灰に還った。
結果として、織田債の信用不安は沈静化した。
無制限の買い支え、そして即応の殲滅作戦。それをもって信長は「我は恐るべき者なり」と市場に対し明確に告げた。
実際、以後の債券市場は沈黙を保ち、本願寺もまたこの乱については一言も発さなかった。顕如は沈黙を選び、下間頼廉もまた苦笑のうちにこの敗北を見送った。
だが、勝利の代償は大きかった。
織田家の国庫は空になった。買い支えに投じられた資金と、伊賀討伐の軍費によって蓄えはすべて吐き出された。
信長は、即座に動いた。
寺社への課税を強化し、保護を廃した。社領の直轄化が進められ、宗教勢力の経済的基盤は次第に揺らぎ始めた。
堺・京・伏見といった都市の商人たちにも、追加の上納を命じ、協力を拒む者には強制力が行使された。
さらに各地の年貢評価が見直され、検地の名の下に徴収は一層強化された。
伊賀は焼け、信用は戻り、そして財は再び集められ始めた。
だが、そのすべての裏には、恐怖があった。信長の政とは、すでに理ではなく、威の上に成り立つものとなりつつあった。
天正九年、秋。伊賀の山々に、もはや人の気配はなかった。
織田信長による再征が果たされてから、わずかひと月。抵抗を試みた者はことごとく討たれ、生き残った者は山を捨て、あるいは土に還った。大乱というより、これは処断であり、見せしめであった。
伊賀惣国の名残を継ぐ者たちは散った。京、堺、伊勢、そして三河。なかには修験の皮をかぶって旅する者もあったが、多くは名を捨て、言葉を失い、呼吸を潜めて生きる道を選んだ。
そのうちのひとつ、洛中六条堀川の裏道にひっそりと建つ荒れ屋敷。瓦は欠け、垣は崩れ、敷石の苔は濃く、雨の夜ともなれば鼠の音が勝る。かの屋敷の奥の間に、火も灯さずに二人の男が坐していた。
一人は柘植九郎右衛門。今は風貌の冴えない浪人風。声も小さく、口元にはしばしば手をあてる癖がある。
一人は服部半蔵。こちらも乱より往時の風采は失われていたがその目つきだけは寒空にかかる三日月のごとく鋭い光を宿していた。
二人のあいだには言葉がなかった。かわりに、九郎右衛門の前には古びた紙片があり、その上に筆が走っていた。
それは、式であった。
数字も、漢語も用いられてはいない。そこにはただ、簡素な言葉が並ぶのみ。
「げち、重なりすぎれば、ちから薄し」
「ほうび、定まらざれば、兵、心うごく」
「おそれ、広がりすぎれば、やがて誰も従わず」
「しからば権のちから、ゆるむは必然」
それは彼の計算であった。誰に教わったでもなく、また誰に見せるためでもない。山河を焼かれ、同胞を斬られ、何も残らぬ中で、なおも何かが残るとするならば、これである。
戦では勝てぬと知っていた。だから、彼は「式」によって勝つ道を選んだ。
すなわち、大権力を、その構えの中から崩すことである。
九郎右衛門は、織田信長の姿を見ていた。信長が京に上るたび、僧に化け、町人に紛れて、彼の言葉を記し、その布陣を観察した。そして、ある一点に気づく。
この男の支配は、あまりに複雑で、あまりに速すぎる。
命令が多すぎれば、従う者は混乱する。恩賞が定まらなければ、功の見返りが見えぬ。怖れによる支配は、最後には誰も信じなくなる。
これをひとつの式として読み解くならば、こうなる。
「権のちからは、命(めい)のそろいと、褒美の定まりにて立ち、恐れとて多くなれば、却って力は失せる」
彼はそれを「式」と呼んだ。
そして、崩し方もまた、計算の内にあった。誰の心を揺らせばよいか。誰に疑念を植えればよいか。どの仕組みにほころびを加えれば、やがて全体が崩れるか。
それは、山に火を放つよりも、静かで、そして恐ろしいやり方だった。
柘植九郎右衛門の式は、まだ誰にも知られていなかった。
だが、風はすでに、動き始めていた。
信長の支配は一見すると強固であり、恐怖と権威に支えられ、商人との密接な関係を武器にしていた。しかし、その支配の土台は決して完璧なものではなく、無数の矛盾を孕んでいた。信長自身が意図的にそれらを放置し、管理しきれない部分も多かった。そのため、内部での摩擦や不安は、あたかも手入れの行き届いていない庭の雑草のように、目に見えないところで広がりつつあった。
柘植九郎右衛門と服部半蔵はその隙間を見逃すことなく、次々と小さな火種をまき散らし、最終的に収束できない状態へと持ち込む計画を立てた。
まず、柘植は堺の商人たちへ、信長が関所復活の命令を出すという偽りの噂を流した。信長の商業政策にとって関所の復活は明らかな矛盾であり、商人たちはこの情報を受けて不安を抱くこととなった。時あたかも商家への上納金強化が強引に施行されていたこともあり、堺だけでなく、博多の商人たちも同様に警戒し、自由貿易を標榜してきた信長への信頼は揺らぎ始めた。商人ネットワークの間で混乱は広がり、信長の商業政策への疑念が次第に広まっていった。
一方で、服部半蔵は信長の命令系統に隙間を作り農民に対する不安を煽ることに成功した。伊賀残党の手を借り偽の命令書を地方の代官に送った。税率が急増するという虚偽の情報を広めたことで、農民の間に恐怖を呼び起こした。信長が実際にどれほど税制を操作しているかは分からないが、農民たちの間で広がった不安は信長の支配への信頼を根本的に揺るがせる要因となった。地方での騒動は一つずつ引き起こされ、信長の地方支配は次第に弱体化していった。
また、柘植は更に深い策略を講じた。彼は宮中出入りの豪商を通じ公家たちとの接触を試み、信長が大嘗祭にかかる費用を渋っているという偽の情報を流布した。この噂が広がることで、正親町天皇と信長との関係は再び揺れ動くこととなった。後にこの偽報は事実であったことが判明し、公家社会の内部から一層の不信が波立ち、結果、信長が嫡子信忠を天皇に擁立しようとしているという噂が公家社会に流れ始めるほど両者の関係は悪化した。
こうして、柘植と半蔵の撒いた数多くの火種は、それぞれが小さな混乱を引き起こしながらも、次第に大きな波紋を呼び、収集がつかなくなっていった。
信長が恐れていたのは、これらの火種がいつ一気に集まり、爆発的な結果を生むかということだった。だが、柘植と半蔵は、そんな爆発を目指すのではなく、時間をかけて少しずつ確実に支配を崩していくことを選んだ。そして、信長はその混乱を収拾することができず、無数の小火が起こり続けることになっていった。
諸大名との軍事的勝負は、すでにほとんど決していた。
甲信、北陸、山陰、四国、織田政権に刃を向けうる武家勢力は、もはや存在しなかった。
だがその一方で、政権の土台をなすべき「人々」の支持、すなわち寺社、商人、公家、百姓そうした多層的な社会層からの信任は、政権の膨張と共に失われていった。
長島一向一揆、伊賀殲滅戦。
信長は、民意や慣習を意に介さぬまま、必要とあらばどのような相手にも容赦のない鉄槌を下した。
それが、恐怖による統治を可能にした一方、政権の構造には「共感」や「共有」が欠けていた。
言い換えれば、織田政権は外形こそ強靭に見えても、内側から支える力を持たぬ、極めて不安定な塔であった。
だが誰もが口をつぐんだ。
“織田の時代”は、もうしばらく続くだろう"
否応なく、そう思わされていた。
そして、本能寺の変が勃発した。
語り尽くされた事件である。
が、ここに一つ、付け加えておくべきことがある。
それは信長が炎に包まれている最中、誰一人、彼を助けようとは動かなかったという事実だ。
秀吉はその「死」をただちに政権奪取の好機と見做し、中国大返しを即断した。
家康は伊賀路(これもまた因縁めいている)から命からがら逃げ帰ったが、何ら軍事行動を起こさなかった。
公家社会にあっては、正親町天皇が明智光秀に恩賞を下賜してさえいる。
もはや織田信長という絶対的な柱が崩れたあとに、それを支え直そうとする力は、どこにもなかった。
信長の最期は、あまりにもその生涯を象徴していた。
急激な登場、電撃的な支配、冷酷な統治、そして劇的な転倒。
その物語性の強さゆえ、本能寺の変は一人の英雄の最期として語られがちである。
だが実のところ、あの一夜はただ一人の終焉ではなく、「織田政権」という構造の限界が露呈した瞬間でもあったのだ。
京での戦火が収まってなお数日、柘植九郎右衛門と服部半蔵は、あらゆる伝を駆使して報を集めた。表の商人筋、裏の抜け忍筋、南都の学僧、堺の廻船問屋。織田信長横死の報は、まことか虚か、つぶさに洗い直された。
やがて確信に至った。
信長はこの世にいない。
焼け落ちた本能寺に、その姿はもはやなかった。
二人は、しばし呆然と座していた。
「……まことか」
半蔵の声は、土の中から搾り出すようだった。
柘植は答えなかった。
焙烙火にくべられた松脂が、ぱち、とひとつ弾けた。
しばしの沈黙ののち、柘植が口を開いた。
「我らの工作が、どれほど影響したかは分かりかねるが」
そこで言葉を切り、静かに煙を吐いた。
「今回は、明智だった。だが、いずれ丹羽が、羽柴が、柴田が、あるいは徳川が、または思いもよらぬ何者かが、信長を倒していたであろう」
そう言い終えると、再び沈黙が落ちた。
静かな風が、障子の隙間を抜けた。
炎の匂いも、鉄の匂いもない、妙に空っぽな風だった。
それは、勝利とも敗北ともつかぬ感覚であった。
ただ、時代が動いたその確信だけが、そこにあった。