契約婚後の生活

秋陽はおだやかで、そよ風が頬を撫でる。そこには、どこか涼やかな気配がまとわりついていた。

窓から差し込む一筋の光が、床にまっすぐな線を引いている。風に揺れるカーテンの先では、青々とした植え込みがかすかに身を震わせた

雀荘の一室。集まった貴婦人たちが卓を囲んでいる。牌を掴み、並べるたびに、カシャ、カシャリと小気味のいい音が響き渡っていた。

北家に座る一人の女。オーダーメイドの黒いロングドレスに、艶やかな髪は結い上げられ、耳元には真珠のイヤリングが揺れている。首元で輝く白鳥モチーフのネックレスは、その繊細なデザインもさることながら、彼女の美しい鎖骨のラインをより一層引き立てていた。

透き通るような白い肌。もともと優美な顔立ちをしているが、計算されたメイクによって、ひときわ目を引く華やかさが生まれている。

その細く長い指には、誰もが目を奪われる大粒のダイヤモンドリングが、これみよがしにきらめいていた。

卓が立ってからというもの、牌仲間たちは彼女の素性について、もうかれこれ百言は交わしただろうか。

だが、彼女が立て続けに和了ったことで、場の空気は一変する。

「今度こそ本気でいくわ。これ以上、負けっぱなしでいられるもんですか」

対面の女が、若き婦人へと鋭い視線を送る。そして、隠す気もなく言った。「長谷川夫人、今度ばかりは容赦しませんからね」

その、洗練された装いと、人を妬ませるほどの強運を持つ女の名は、朝比奈初(あさひな うい)。今年で23歳。長谷川彰啓(はせがわ あきひろ)の妻。――すなわち、彼女たちが口にする「長谷川夫人」である。

初はツモった牌を一瞥すると、求めるものではないと知り、こともなげに河へと捨てた。

ふわりと目を細め、かすかに微笑む。その言葉に、一片の気負いもない。「勝ち負けなんてどうでもいいんです。楽しければ、それで」

「まあ、長谷川夫人は余裕がおありですこと」

向かいの相手が、ねっとりとした声で言う。「余裕なんじゃなくて、旦那様がお金持ちで、そのうえ留守がちだから、かしらね」

冗談めかしてはいる。だが、その声色には、紛れもない嘲りが滲んでいた。

馬鹿ではない。言葉の裏にある棘くらい、とうに気づいている。

それでも初の表情に不快な色は浮かばない。笑顔のまま、応じる。「ええ。片岡夫人は、本当によくお分かりで」

片岡夫人の目が、きらりと光った。その表情がにわかに豊かになり、他の二人へと目配せをする。まるで獲物の弱みを握ったかのように、三つの視線が初へと注がれた。

「でも、旦那様が家を空けがちっていうのも考えものよねえ。長谷川夫人、お気をつけにならないと。そんな素敵な旦那様、外の女に盗られてしまいますわよ」

「長谷川さんって、お顔も綺麗だし、お金もおありだし。男も女も放っておかないタイプでしょう? 抗える人なんていやしないわ」

「そうですわよ、長谷川夫人。今の女は手管がすごいですから。しっかり捕まえておかないと」

朝比奈初は、幼くして両親を亡くした。祖母に育てられたが、その祖母も鬼籍に入ると、故郷を後にしてこの汐見市へとやってきた。そして、人生で最もみじめだった時期に、偶然か必然か、長谷川彰啓と出会ったのだ。

半月前、彰啓と入籍した。

誰もが表向きは丁重に接してくる。だが、その腹の底でどんな思いが渦巻いているかなど、手に取るように分かった。

家柄も後ろ盾もない女が、一体どんな手管を使ったのか――それが、ここにいる誰もが抱く疑問だった。どうしてあの長谷川彰啓が、こんな女を妻として迎え入れたのか、と。

実際のところ、彰啓との結婚は、一枚の契約書の上になりたつ関係に過ぎない。恋愛感情など微塵もなく、いわば互いの利害が一致しただけの、ただの取引。

結婚期間中、彰啓のカードは自由に使わせてもらえる。長谷川家の子を産む必要もないし、夫婦の義務を果たす義務もない。そして、いずれ離婚すれば、彼の財産の半分が手に入る。

対する初がすべきことは、「長谷川夫人」という名の仮面を被り、時折、彰啓が必要とする社交の場に顔を出す。ただ、そこに存在するだけでいい。

これほどの好条件が、向こうから転がり込んできたのだ。断る理由などどこにもない。

たとえ、この結婚が名ばかりのものであっても。長谷川彰啓という男が与えてくれるものは、見せかけの体面も、物質的な豊かさも、初の渇望を完璧に満たしてくれた。彼女が手に入れた豪奢な生活は、他の誰にも真似のできないものだ。

だから、彼女たちの言葉に心をかき乱されることなど、万に一つもなかった。朝比奈初はむしろ、楽しむように、隠すことなく言い放つ。「だって、イケメンでお金持ち、おまけに留守がちな旦那様なんて、断る理由がありませんもの」

……

午後。まばゆい陽光が大地に降り注ぎ、屋外の気温は少しばかり上昇していた。

オフィスビルの一室。

ソファにふんぞり返り、口笛を吹きながら、足を組んでいる男がいた。ゲームに興じている。

そこへ、マネージャーが血相を変えて飛び込んできた。目の前の光景に、彼女の堪忍袋の緒が切れる。ずかずかと歩み寄り、その目の前に仁王立ちになった。「長谷川一樹(はせがわ かずき)! 今がいつだと思ってるの! まだゲームなんてしてる場合!? バラエティの放送まであと二日よ! お兄さんには連絡したの!? この番組、本当に出る気あるわけ!?」

一樹はちょうどチーム戦の真っ最中で、彼女を無視した。

完全に黙殺され、マネージャーの怒りが頂点に達する。彼女は手を伸ばし、そのスマホをひったくった。「いい加減にしなさい! こっちの質問に答えなさいよ!」

一樹は顔を上げる。苛立ちを隠そうともしない。「んだよ、何すんだよ! こっちは集中してんだぞ!」

マネージャーは彼のスマホの電源を切り、ローテーブルに叩きつける。画面が真っ暗になるのを見て、一樹はそっぽを向いた。不満を全身で表現している。

「で、何の用だよ」吐き捨てるような口調だった。

「二日後のバラエティ! お兄さんには連絡したかって聞いてるの! 番組側が、段取りの確認をしたいって言ってるのよ!」

「してない。……もう出ない」

「契約書にサインまでして、出ないですむと思ってるの!?」マネージャーの顔色が変わる。最後通牒を突きつけた。「出ないならそれでもいいわ。ただし、違約金はあんたが払いなさい」

金、という言葉に、一樹は弾かれたように顔を上げた。その瞳に、一瞬、動揺が走る。

事の発端は、先日、あるファミリー系のバラエティ番組から一樹に出演オファーがあったことだ。兄弟か姉妹を一人同伴させることが条件だった。

もちろん、兄である長谷川彰啓と参加するつもりでいた。だが、収録が目前に迫った今も、彰啓は海外出張から戻っていない。

しばしの思考を経て、一樹もいくらか冷静になったらしい。その態度は、少しずつ和らいでいく。「兄貴は出張中で、まだ帰ってない。だから出られないんだ」

マネージャーは少しの間黙り込み、そして言った。「……だったら、他に兄弟はいないの?」

「妹ならいるけど、まだ学生だ。番組に出てる暇なんてない」

もう、終わりだ。今回は完全に終わった。

どうやって家に金の無心をしようか、どうすれば違約金を工面できるか、一樹がそんなことを考え始めた、その時。マネージャーの頭に、ひとつの考えが閃いた。「お兄さんが無理なら、お義姉さんがいるじゃない」

長谷川一樹は眉をひそめ、訝しげに彼女を見返した。「……あの人が、何の関係あるんだよ」

「お義姉さんに出てもらうのよ」

考える間もなく、一樹は即座に拒絶した。「断る」

「拒否権はありません。高額な違約金を払いたくなければ、ね」

マネージャーのその一言で、一樹はぐうの音も出ず、おとなしく口を閉ざした。彼女はテーブルの上のスマホを拾い上げ、彼に突きつける。「ほら、さっさと! お義姉さんに電話して!」

彼の視線は、スマホの上で固まったまま動かない。朝比奈初とは、ほとんど面識がない。そんな相手に、頭を下げることなどできるはずもなかった。

あまりにも長く躊躇する長谷川一樹に、マネージャーはしびれを切らした。彼の手からスマホを奪い取ると、その画面を彼の顔に向け、ロックを解除する。そして、勝手に朝比奈初へと電話をかけ始めた。

コールが繋がり、マネージャーは朝比奈初に事の経緯を手短に説明した。そして最後に、どうかこの場を救ってほしい、長谷川一樹と共に番組に参加してはもらえないかと、懇願した。

「ええ、いいですよ。問題ありません」麻雀卓で三人の夫人方をやり込めたばかりで、しばらくは卓が立つこともないだろう。どうせ暇を持て余すのだ、と初は思った。だから、二つ返事で快諾した。