第76章 晩餐会(10)唇が虫に刺された

「ちっ」小林温子は深谷夕遅をまともに見ようともしなかった。

一撃で倒れるような小物。

彼女は直接夕遅の横を通り過ぎた。

体が偶然夕遅にぶつかったが、立ち止まって謝る気配もなかった。

夕遅が過去に千早に与えた屈辱を思い出すと、彼女を撲殺しなかっただけでも慈悲だと思った。

深谷夕遅は体を後ろに傾けた。

彼女は温子が自分を嫌っていることを知っていた。もちろん、彼女も温子に対して良い印象は持っていなかった。

しかし、温子がわざと彼女にぶつかってくるとは予想していなかった。

今夜も彼女は超高いヒールを履いていた。

体のバランスを崩した。

これから起こりうる結果が想像できた。

まさか今夜、白井香織の二番煎じになるつもりか?!

いや。

そんな恥ずかしい思いはしたくない……

「あっ!」

制御できない悲鳴とともに、夕遅は突然硬い胸に寄りかかった。

彼女は胸をなで下ろした。

振り返って自分を受け止めた人を見たとき、心臓の鼓動が急に速くなった。

彼女はずっと、この人生で藤原宴司しか好きにならないと思っていた。

深谷千早のものを奪うことしか考えていなかった。

千早のものなら何でも欲しかった。

これが初めて、他の男性に心ときめく感覚を覚えた瞬間だった。

彼女はついに一目惚れというものを体験した。

客観的に言えば、目の前の男性は宴司ほどイケメンではなかった。

しかし、この一目で彼女の心は春の訪れを感じた。

彼女は宴司への感情は単なる所有欲だったのかもしれないと疑い始め、目の前の男性への感情こそが本当の……愛なのかもしれないと思った。

木村冬真は夕遅にそのように見つめられ、眉をしかめた。

彼はすでに彼女を支え起こしたのに、彼女はまだ離れる気配がなかった。

「お嬢さん?」冬真は促した。

夕遅は急に我に返った。

その瞬間、顔が一気に赤くなった。

彼女は慌てて彼の腕から身を起こした。

恥ずかしさのあまり、「ありがとう……」

言葉が終わる前に。

冬真はすでに彼女の横を通り過ぎていた。

夕遅の表情が微妙に変わった。

彼が誰なのかまだ聞いていない!

彼も彼女が誰か知らない!

なぜ行ってしまうの?!

彼女は追いかけようとしたが、それでは自分の価値を下げると思った。

相手に品がないと思われるのも心配だった。