第1章プロローグII:目覚めを引き起こした記憶

(2012年──インドネシアのある家にて)

灰色のスーツに青いネクタイ、黒のスラックスを身につけた一人の男性が、寝室で若い少女に向かって重大な言葉を伝えていた。その少女はまだ十代で、彼の末の妹だった。

「セレナ……俺は、センチュリー・オメガの本部に行く。非常に危険な任務だ。だから、子供たちは連れていけない……巻き込むのが怖いんだ。」

セレナ・ヴィレンドラと呼ばれるその妹の頭を、兄は優しく撫でた。

「だから……俺の子供たちを、帰ってくるまで頼むよ。セレナ、トウヤ……」

セレナの瞳は大きく見開かれ、悲しみに満ちた涙で溢れながら、首を横に振った。彼女は、兄とその妻がもう戻ってこないかもしれないという恐怖に怯えていた。そして何よりも怖かったのは、自分が預かる二人の子供たちが、両親の死を知ったときの反応だった。

「嫌! 嫌! 嫌! どうして兄さんは私たちを置いていくの!? もし戻ってこなかったら……もし、もう二度と兄さんの声を聞けなかったら……!?」

「二人の子供たちが、もう二度と兄さんとお義姉さんに会えなかったら……どうするのよ!?」

「セレナ……落ち着いてくれ、そんなに──」

「落ち着けるわけないでしょ!? そんな日が本当に来たらどうするの!? 私は……私はまだ兄さんと一緒にいたいのに……!」

セレナの叫びは止まらなかった。兄を失うかもしれないという現実が、彼女の心を引き裂いていた。

「私は……まだ兄さんのそばにいたい……だ、だから……兄さんのことが好き……兄さんがいないと、心が……ぽっかり空いちゃうの……」

彼女の涙は止まることなく流れ続けた。兄に対する想いは、家族以上の絆で結ばれていた。彼らは皆、同じ職場と学校で過酷な任務を課せられていたが、任務の難易度には差があった。

歳を重ねるごとに任務は困難になり、階級に応じて赴任地も変わる。

セレナが激しく泣き叫んでいたとき、兄は彼女の頬にそっと手を伸ばし、涙を拭った。

「セレナ……未来はまだ分からない。だから、そんな言葉を言わないでくれ……」

「きっと、神がまた俺に生きる機会を与えてくれるさ……もう一度、みんなに会えるかもしれない。」

セレナは静かに兄を抱きしめた。それが最後の抱擁になると感じていた。未来を知るのは神だけ。彼女には、ただ祈ることしかできなかった。

「いってらっしゃい……兄さん。気をつけて……」

それが、彼にかけられる最後の言葉だった。

抱きしめたまま、兄は隣に立っていた青年──セレナの兄弟、トウヤ・ラフマディンに視線を送った。

「トウヤ……俺の子供たち、頼んだぞ。」

「ああ、任せてくれ兄さん。インシャアッラー、責任持って育てるよ。娘を育てるのだって、アルクと一緒に楽しくやってるからな。」

「きっと、うちの子もたくさん友達ができて喜ぶさ。」

トウヤは子供の世話が得意だった。彼にとって、子育ては家族の幸せの象徴だった。

兄は満足げに微笑み、ゆっくりと頷いた。

「よかった……ありがとう、トウヤ。セレナ、お前も頼むな。」

セレナはまだ兄に抱きついたまま、力なく答えた。

「……うん、私も守るよ、兄さんの子供たちを……」

(2017年──ロシア近郊の山岳地帯にて)

一面の雪に覆われたロシアの山々。その中に、黒い鉄で作られた巨大な建物が佇んでいた。それはまるで、冷たい雪に包まれた陰鬱な城のようだった。

その建物は、"ヴォルテクス"という名の秘密結社が所有する研究所だった。

ヴォルテクス──それは長い歴史を持つ悪の組織。第二次世界大戦の時代から存在し、世界の支配を目指す準軍事的テロ組織である。

彼らは人間を兵器化するため、恐ろしい人体実験を繰り返していた。実験に成功した被験者には戦闘訓練が施され、失敗した者は暴走するミュータントとなった。成功率はわずか35%。

対象は8歳から20歳までの若者だった。

現在、ヴォルテクスは新たな実験──"ロザリーネ計画"を進行中だった。

目的は、バラの形をした神秘のクリスタル"ロザリーネ"を人体と融合させること。

だが、幾多の被験者が選ばれても、誰一人としてクリスタルを受け入れることができなかった。

そして、最後の希望──被験体#413。

名は、サルワ。

彼女はインドネシアの平凡な家庭の少女。ある日、突然黒い車に連れ去られ、ここに連れてこられた。

痩せ細った身体に、ブカブカの衣服。目は虚ろに鋼鉄の壁を見つめる。

「被験体#413、祭壇室へ運べ。」

冷たい声が、黒いサングラスの老博士──ヴィルムントの口から放たれた。

黒服の職員たちがサルワの手を引き、祭壇へと運ぶ。

祭壇の中央には、淡くピンクに輝くロザリーネが浮かんでいた。周囲には不気味なルーンが光を放っていた。

「中央に置け。」

冷たい鉄の台の上、サルワの手足が拘束される。

だが、彼女の視線がロザリーネに向けられた瞬間、クリスタルは激しく輝き始めた。

「共鳴……?グラフが跳ね上がっているぞ!」

「なんという反応……まさか……」

ヴィルムントの口元が歪む。

「彼女だ……ロザリーネが選んだ子供。」

次の瞬間、光がサルワの体を包み、束縛を焼き切る。彼女の瞳に、淡いピンクの光が宿る。

「これ……なにが……起きてるの……?」

ロザリーネは、サルワを選んだ。

彼女の中に、癒しと愛の力、そして制御不能な感情の力が流れ込む。

警備員たちが近づこうとした瞬間、サルワの体から放たれたバリアが彼らを吹き飛ばす。

「美しい……完璧だ。我らの未来をこの子と──」

だが、それは誤りだった。

サルワの瞳から涙が零れる。恐怖ではなく、懐かしさと怒りが混じった涙だった。

「帰りたい……!」

その一言で、ロザリーネが暴走を始めた。

【ロザリーネ・ノヴァ──形態:オーバードライブ】

クリスタルの無意識覚醒が始まる。

BOOM!

ピンクの光が爆発し、すべてを呑み込む。壁が崩れ、金属が溶け、地下施設が崩壊する。

「リアクターが暴走中! 緊急退避!」

「撃て! 撃てぇぇ!!」

しかし、弾丸やプラズマはすべて花びらとなって霧散する。

サルワの手が空へと伸びる。

天井に、巨大なバラの形をした光の陣が現れる。

「ラジア・ロザリーネ──満開!!」

無数のバラの棘が、あらゆるものを貫いた。

爆発音。轟音。光と煙。

静寂の中、サルワは巨大なクレーターの中心に立っていた。

「わたし……人を……殺したの……?」

小さな声で、震えるように。

そのとき、白いローブをまとった女性が彼女を抱きしめる。

トリニティの一員だった。

「違う……あなたは、生き延びただけ。」

「これからは……私たちが守るよ。」