栗原愛南はもうすぐ23歳になる。
山田楚良はちょうどこの数日、海浜市に人を派遣し、彼女を迎えに行かせることにした。皆にこの噂の大先輩を会わせるためだ。
彼はこの弟子をとても気に入っていた。
山田楚良は几帳面な人物で、掌門になった当時、弟子を取ることは非常に重要だった。結局のところ、山田家の次期掌門を選ぶことに関わるからだ。
しかし、自分の甥や息子、さらには京都から武道を学びに来た子供たちの素質を見極めたが、気に入る者は一人もいなかった。
そのため、何年も時間を無駄にしてしまった。
彼は質より量という態度を貫き、どうしても弟子を取ろうとしなかった。二番目の弟子の大弟子である栗原刚弘は、当時引く手数多だった。
皆、将来栗原刚弘が山田家に婿入りし、山田家の技を継承して次期掌門になるのではないかと推測していた。
山田楚良もそう考えていた。
しかし、それは最悪の選択だった。選択肢があるなら、もちろん世界で最高の人材を選びたかった。
彼は全国を巡り、最適な子供を探し始めた。そして7年前、海浜市にたどり着いた。
当時公園で、走り回る子供たちを見ていたのだが、いつの間にか風船を売る少女に目が留まった。
その少女は放課後に来たばかりで、角に立って風船を売っていた。
隣の露天商が彼女をいじめ、座るように言い、他人の視界を遮るなと言った。
少女は椅子を持っていなかったので、馬歩の姿勢でそこに立っていた。
山田楚良は面白く感じた。
武道家なら誰でも知っているが、この姿勢はとても疲れる。彼は少女がどれだけ持つか見てみたかった。1時間が過ぎ...2時間が過ぎ...
少女はそのまま半蹲踞の姿勢で3時間半も耐え続けた!
重要なのは、その間ずっと表情一つ変えなかったことだ。
山田楚良はすぐに彼女の素質を観察し始めた。観察してみると、まるで飢えた狼が肉を見つけたかのように、栗原愛南に深く魅了された。
そこで彼は彼女に付きまとい、武芸を教えたいと言い、師匠と呼ばせようとした。
後になって、彼は少女に恐ろしい母親がいることを知った。幼い頃から暴力を振るわれ、彼女がこれほど打たれ強く、体が丈夫なのも、虐待されたためだった。
この子は15歳だったが、長期の栄養不足で身体年齢は10歳程度で、武道の最適な修行年齢を逃していなかった。