葉黙は少し驚いた顔で、目の前の女性を見つめた。彼女は髪が短く、美人って言えるほどではないが、一応いい顔立ちをしている。どこかで見たことあるような気がしたが、どうしても思い出せない。先ほどの授業前に流れ込んできた記憶以外は、他のことは徐々に曖昧になり、自分が生まれ変わる前の記憶だけが残っている。
「ふん、よくもやってくれたわね、葉黙。私が何度もお金を貸してあげたのに、知らないふりをするなんて、本当にひどいわ」その丸顔の女性が文句を言った。
それを聞いた葉黙は突然思い出した。この女性は王穎といい、京城の王家の人間だ。おおらかで細かいことを気にしない性格で、思ったことをすぐ口に出す人だが、心は優しい。彼女も寧海で通学していて、しかも寧海大学の学生だ。葉黙は京城にいた頃から嫌われ者だったので、知り合いは少なかった。葉家から追放された後はなおさらだ。
王穎と知り合ったのは、彼女が妹の葉菱の同級生で、よく葉黙の家に遊びに来ていたから、自然と知り合いになった。
葉黙が葉家から追放された後、ほとんどの人も赤の他人に扱ってるが、王穎だけは、その活発な性格で裏表のない人柄だったため、そんなことはせず、むしろ彼が生活に困っていた時にはお金を何度か貸してくれた。
「あぁ、王穎か。すまない、さっきは頭が混乱していて、気づかなかった…」葉黙はそう言いながら、今の自分には食事代すらないと気付き、彼女にまた借りてもいいかなと考えていた。
葉黙が借金の言い訳を考えている時、王穎は意味深い表情で聞いた。「葉黙、今の京城において、あなたの次に有名人が出たよ、いや、有名人というより、一番の笑われ者かもね。知ってる?」
王穎はその言葉が葉黙の自尊心に、傷つけるかもしれないことなど、気にも留めず、楽しそうに話し続けた。
そう言うと、彼女は葉黙の返事を待つことなく、さらに続けた。「数か月前、寧家の人が婚約解消のために、葉家に訪ねたとき、おじさんが何て言ったか知ってる?」
葉黙は淡々と答えた。「私はただ葉黙だ。おじさんなんていない」
「あぁ、ごめんね。あなたはもう葉家の人じゃないか。その、おじ…いや、葉おじさんは『葉黙はもう葉家の人間ではない。婚約のことは知らない。寧海大学にいると聞いているから、直接寧海で彼と話し合えばいい』って答えたの。
寧家の人たちは怒り狂ったけど、どうすることもできなかったわ。ねぇ、葉黙、寧家の人はあなたのところに来なかった?宋家は寧軽雪を宋少文に嫁がせようとしているって噂があるよ。ふふ、あなたの元婚約者が何て言ったか想像もできないでしょうね」王穎はここまで話すと、得意げな顔で葉黙を見ながら、彼の反応を期待している。
葉黙は軽く首を振った。正直なところ、寧軽雪についての印象はほとんどない。京城一の美女で彼の婚約者だったとはいえ、今の彼はもはや元の葉黙でもなければ、葉家の孫でもない。寧軽雪の態度は彼とは何の関係もないから、誰と結婚しようと自由だ。彼にとってはどうでもよいことで、彼の心に少しの波も立てない。
それに寧軽雪がどれほど美しくても、彼の師匠に勝るはずがない。以前の彼は単純で鈍感だったから、師匠の好意を単なる親切だと思っていたが、共に生死の輪迴を経験した今でも、洛影の気持ちを理解できないなら、本当に死んだ方がましだ。もしかしたら、洛影も自分のように、生まれ変わっているかもしれない。
そう考えると、葉黙は少し呆然となった。
呆然としている葉黙を見ると、王穎は彼が寧軽雪と別れるのが悲しいか、あるいは葉家から追放されたことで悩んでいるのかと思い、急いで慰めてくれた。「葉黙、寧軽雪は確かに美人だけど、寧家の人だよ。あなたはもう葉家の若様じゃないから…」
葉黙はもちろん王穎の言わんとすることを理解している。彼は軽く笑って言った。「寧軽雪か?ああ、もう忘れた」これは本当のことだった。彼は寧軽雪が誰なのかすら覚えていない。強いて言えば、目の前の王穎の方がよほど実感があって、印象に残ってる女性だ。
王穎は彼に白い目を向けて、そんなこと信じられるかと、心の中でつっこんだ。
しかし口ではこう言った。「そんな風に言うと、寧軽雪は傷つくわよ。さっき私が聞いた、京城で一番の笑われ者って、彼女のことよ」
葉黙は驚いた。どうして彼女が笑われるのだろう?自分が天萎で、葉家から追放されたことについて、寧家が婚約解消の発表を出せば済むことではないか?自分のような浮き草のような存在が、報復しに行くわけもないし。
王穎はすぐ説明した。「宋家が寧家の寧軽雪に縁談の話をした後、寧軽雪は大勢の前で、自分はすでに葉黙のものだから、他の人とは結婚しないと言ったの。ただし…と言って、その後は何も言わなかったわ。その『ただし』が何なのかは誰も知らないけど、その言葉はすぐに広まって、父親が怒りのあまりに、彼女を閉じ込めたという噂もあるけど、本当かどうかはわからないわ。
「彼女のその発言のせいで、京城中の人が彼女を笑っているの。宋家の縁談を断るための口実に、あなたを使ったのはわかっているけど、それでも笑われているわ。みんなが裏で何て言ってるか知ってる?彼女は男を知らないから、天萎がどういうものかわからないから。もし彼女が…
「あ、ごめんなさい。あなたを非難しているわけじゃないわ。みんながそう言ってるだけよ」ここまで話すと、王穎はようやく、自分が言っている天萎の男が、目の前にいることに気付いた。さっき葉黙がズボンを脱ぐ行為は、おそらくそれを確認するためだったのかもしれないとも思った。
葉黙は心の中で、この王穎は本当に思慮が浅いと思った。まるで豆をこぼすように話しかけてきて、前後の配慮など全くない。しかし今の彼には特に何とも思っていない。なぜなら彼は本当の天萎ではないから、練気三層まで修練すれば、この詰まった経絡は自然に開通するはずだ。三層まで修練するのは非常に困難だが、それでも目標ができた。
寧軽雪の言葉については、もちろん真剣に受け止めるつもりはない。葉黙は彼女に会ったことすらないが、京城一の美人という評判から考えれば、容姿は悪くないはずだ。おそらく彼女はその宋少文が気に入らず、葉黙を盾にしただけだろう。葉黙にとって不可解だったのは、人を盾にしてもいいけど、なぜ大勢の前であんなことを言う必要があったのか?宋家の人にだけそれを伝えば十分ではないか。
でも葉黙はすぐに理解した。今の寧軽雪は誰とも婚約を結びたくないから、敢えて大勢の前であんなこと言ったのだ。彼女は本当に葉黙と結婚したいわけではない。『ただし』という言葉を付け加えて、結婚したくなった時に、その『ただし』の後の言葉を言えばいいだけだ。
あの女はただものじゃないな。
「それと、これあげる」王穎はそう言って、クラフト紙の封筒を葉黙に渡した。
葉黙が封筒を開けると、中には札束が入っていた。彼は少し驚いた眼で王穎を見つめながら、まだ頼んでもいないのにこんなにたくさん貸してくれていいのかと思っている。
「これはあなたの弟の、えっと、葉子峰が渡して欲しいと私に頼んだからよ。誰かがあなたに渡して欲しいと頼んだって言ってたけど、誰かは言わなかったわ。たぶん彼自身じゃないかしら」王穎の言葉で、葉黙は異母の弟と妹のことを思い出した。
葉菱は一度も彼に、親切な顔を見せたことはなかったようだが、弟の葉子峰は彼に結構優しい。
このお金は今の彼には必要なものだし、返す必要もないが、今後いずれ返せばいい。