彼が一瞬たじろぐのを見たが、深くは考えず、皮肉な笑みを浮かべて部屋を出て行った。藤堂澄人に視線を向けることはなかった。
藤堂澄人はなぜか、胸が締め付けられるように苦しかった。かすかな痛みすら感じる。
次の瞬間、彼はソファから立ち上がり、窓辺に歩み寄ると、九条結衣の車がゆっくりと門から出て行くのが見えた。
テールランプが完全に視界から消え、光が全く見えなくなるまで、藤堂澄人は窓の外を見つめていた。
胸の苦しい場所に手を当て、目を閉じると、頭の中は、九条結衣の穏やかで吹っ切れたような表情でいっぱいだった。胸はますます締め付けられるような感覚に襲われた。
「片想い?」
固く閉じていた瞳をゆっくりと開け、静かな夜空を見つめながら、藤堂澄人は皮肉な笑みを浮かべた。
「結衣、この3年間、本当に片想いだったのか?」
もし、本当に自分を愛していたのなら、あの時…
藤堂澄人の目に、暗い影が落ちた。しかし、すぐにその影はかき消された。
…
九条結衣は藤堂グループのビル前に立ち、金色に輝く「藤堂グループ」の文字を見上げた。数枚の紙を握りしめ、ビルの中へと入って行った。
「すみません、松本秘書はいらっしゃいますか?」
彼女は受付へ行き、丁寧に尋ねた。
受付は会社の顔だ。どんなにつまらない仕事でも、社員は常に礼儀正しく、笑顔でいることを求められる。たとえ、九条結衣を見下すような視線を送っていたとしても。
「ご予約はございますか?」
松本秘書は藤堂社長の秘書だ。彼に近づこうとする人間はごまんといる。
九条結衣は受付の目に宿る敵意と軽蔑に気付いたが、気にする様子もなく、ただ軽く微笑んで首を振った。「いいえ」
「申し訳ございませんが、ご予約がない場合は、あちらでお待ちいただけますでしょうか?」
受付は微笑みながら待合席を指さし、内線電話をかけることもしなかった。つまり、けんもほろろに断られたのだ。
「わかりました」
彼女はおとなしく頷き、待合席へ向かって歩き出した。その時、背後から驚いたような、それでいて敬意のこもった声が聞こえた。
「奥様」
エレベーターから出てきた松本裕司(まつもと ゆうじ)は、遠くから見覚えのある後ろ姿に気づき、思わず声をかけてしまっていた。
九条結衣が振り返ると、松本裕司はすでに彼女の目の前に来ていた。
「奥様、社長にお会いですか?ただいま会議中でして…」
「いいえ、あなたに用があるの」
九条結衣は松本裕司の言葉を遮り、紙を差し出した。
「これを澄人に渡して。時間のある時にサインしてもらえる?」
彼の祖母である藤堂老夫人からの圧力がなければ、藤堂澄人は最初から自分と結婚するつもりはなかったことを、九条結衣は知っていた。
離婚にサインすることになれば、彼はきっと喜んでくれるだろう。
松本裕司が状況を理解するよりも早く、九条結衣は立ち去った。3年間の、まるで他人同士のような結婚生活が終わった今、彼女は心から解放された気持ちだった。
松本裕司は手にした「離婚届」の文字を見て、頭を抱えた。
奥様は、わざと自分を困らせようとしているのだろうか?
これを受け取ったら、どれほど大変なことになるか、分かっているのだろうか!
受付の女性も、松本裕司の呼びかけに驚きを隠せない。
奥様?
社長夫人?
もしかして、社長は結婚していたの?
しかし、社長のような人が結婚していたなんて、なぜ誰も知らなかったのだろうか?