さっきの社長夫人への態度を思い出し、受付の女性は思わず背筋が凍った。
社長室──
藤堂澄人は無表情のまま、手元の書類に目を通していた。日差しが大きな窓から差し込み、彼の全身を薄い光の輪で包み込む。元々彫刻のように整った顔立ちに、神様が舞い降りたかのような、幻想的な輝きが加わった。
しかし、書類の内容は全く頭に入ってこない。昨日の夜、九条結衣が家を出る時の、穏やかで吹っ切れたような表情が、頭から離れなかった。
松本裕司は離婚届を手に、恐る恐る社長室のドアを開けた。すると、藤堂澄人と目が合った。
藤堂澄人の瞳は、底知れぬ闇のように黒く、何を考えているのか全く読み取れない。
松本裕司の言葉を濁す様子を見て、藤堂澄人は眉をひそめた。「何だ?」
彼の声は、本人と同じく、生まれながらの冷たさを帯びていた。一言発するだけで、周囲の空気が凍りつくようだった。
松本裕司は、九条結衣から渡されたものを、恐る恐る藤堂澄人に差し出した。
「社長、先ほど奥様がお持ちになりました」
藤堂澄人は眉をぴくりとさせ、紙に視線を落とした。鋭い光が、瞳の奥に宿る。
「結衣が持ってきたのか?」
声のトーンがさらに冷たくなった。松本裕司は渋々頷いた。
藤堂澄人は黙って、書類の下部に書かれた、九条結衣の名前を見つめた。
離婚届?
九条結衣、いい度胸だ!
藤堂澄人の顔に、怒りが浮かぶ。深く沈んだ瞳孔は、今にも爆発しそうな怒りを秘めていた。冷静に書かれた財産分与の項目を見つめ、薄い唇が冷笑を浮かべる。
まるで、目の前の離婚届を切り裂いてしまいたい衝動に駆られていた。
「社長…」
冷え切った空気の中で、松本裕司はそれでも言葉を続けた。「奥様は、さらに…」
冷たい視線が松本裕司に向けられ、彼は思わず身をすくめた。
「何を言った?」
簡単な言葉だったが、まるで氷の塊が頭に落ちてきたかのような衝撃だった。
「奥様は、早めにサインをして、時間を見つけて一緒に離婚届を出しに行きましょうと仰っていました」
藤堂澄人は何も言わず、冷たい瞳は、深い闇を湛えていた。
彼が軽く手を振ると、松本裕司は解放されたかのように、急いで部屋を出て行った。そして、気を利かせてドアを閉めた。
「離婚?」
藤堂澄人は冷笑を浮かべた。「結衣、なぜ俺が、お前の思い通りに動かなきゃならないんだ」
離婚届を握りしめる手に、さらに力が入る。「離婚届」の文字が、目に焼き付く。そして、彼はそれを引き出しに放り込んだ。
彼にとって、これは九条結衣のいつもの手口に過ぎなかった。もう飽き飽きしていた。
1ヶ月後──
九条結衣は、産婦人科医から受け取った検査結果を、呆然と見つめていた。そこに書かれた数値は、彼女が妊娠していることを明確に示していた。
1ヶ月前のあの夜、彼女と藤堂澄人とのたった一度の関係で、まさかこんなことになるなんて。
「結衣、赤ちゃんは順調に育ってるわ。でも、病院の仕事は大変だから、最初の3ヶ月は休暇を取った方がいいと思う」