女性が素直に謝ったため、運転手も強く責めることはなかった。九条結衣は、既に自分の電話番号を書いた紙を渡していた。「申し訳ありません。これから息子を学校に送らなければならないので、車の修理が終わったらご連絡ください。必ず全額弁償いたします」
運転手は、その紙に書かれた電話番号に目を落とし、九条結衣を見た。何かをためらっているようだった。九条結衣は、その戸惑いの理由に気づいた。
「私は第一総合病院の医者をしています。名前は九条結衣と言います。もし電話が繋がらなかったら、病院に連絡してください」
運転手は、彼女の真剣な表情を見て、嘘をついているようには思えなかった。念のため、九条結衣の車のナンバーを控え、「わかりました。うちの社長も急いでいるので、これで失礼します」 と言った。
「ありがとうございます」
九条結衣は、運転手に感謝を述べると、急いで自分の車に戻った。
マイバッハの後部座席では、先ほどの衝突事故に、苛立ちを隠せずにいた。運転手が事故処理に向かった後も、彼は何も言わずに、タブレット端末の操作に集中していた。
やがて、手を止めてふと窓の外に目をやると、見慣れているはずなのに、どこか遠い存在のように感じていた女性の顔が見えた。
「結衣!」
ちょうど車のドアを開け、乗り込もうとした時、聞き覚えのある声が響いた。
胸騒ぎを覚えながら顔を上げると、案の定、藤堂澄人が車の傍に立っていた。長い腕をマイバッハのドアにかけ、眉をひそめてこちらを見ている。
九条結衣の視線は、マイバッハのナンバープレートに向けられた。見覚えのある番号だ。先ほどは全く気づかなかったが、まさかこんなところでも彼と遭遇するなんて。この腐れ縁には、本当にうんざりする。
待って、息子?
九条結衣の心臓が、激しく鼓動を始めた。車の中にいる息子のことを考えると、急に不安になった。何としても、彼に息子の存在を知られたくなかった。
彼女は、慌てて車のドアを閉めると、自ら歩み寄り、さりげなく藤堂澄人の視線を遮った。
「まさか、藤堂社長だったなんて。ごめんなさい。車をぶつけてしまって」