「藤堂さん、九条先生をお探しですか?」
通りかかった研修医が、藤堂澄人に声をかけてきた。
「ああ」
「九条先生はもう退勤されましたよ。つい先ほどお帰りになりました」
「もう帰ったのか?」
藤堂澄人は眉をひそめ、研修医に礼を言ってから踵を返した。
携帯電話を取り出し、九条結衣に電話をかける。彼女に自分から電話をかけるのは、初めてのことだった。説明できない緊張感が、彼を襲う。
「ツー…ツー…」
呼び出し音が2回鳴った後、話し中になった。
「ちくしょう!」
彼は舌打ちをし、もう一度電話をかけ直したが、やはり話し中だった。
「くそっ!」
「社長」
運転手は、藤堂澄人が出てくると、すぐにドアを開けて待っていた。彼が九条結衣を罵るのを聞いて、運転手は内心で奥様に同情した。
朝、追突事故を起こしたことを松本秘書に報告した時、あの女性が社長夫人だと教えられ、以後は丁重に扱うように言われていた。
藤堂澄人は車に乗り込んでも、何度も電話をかけ続けていたが、全て断られていた。運転手は、内心で奥様に感心した。
社長の電話を切るなんて、普通はできない。奥様は、本当に肝が据わっている。
バックミラーに映る藤堂澄人の顔は、怒りで歪んでいた。運転手は少し迷った後、口を開いた。「社長、今朝、奥様がお子さんを学校に送っていくと言っていましたので、そろそろ…お迎えの時間ではないでしょうか?」
藤堂澄人は携帯電話を持つ手を止め、鋭い視線を運転手に向けた。「今、何と言った?」
藤堂澄人の視線に、運転手は身震いした。唾を飲み込み、もう一度言った。「奥様は今頃…お子さんのお迎えに行かれているかと…」
「子供?」
社長の表情がますます険しくなり、怒りが頂点に達しているのを見て、運転手は黙り込んだ。
社長はいつも冷静沈着で、近寄りがたい雰囲気だった。他人との距離を常に保ち、感情を表に出すことはほとんどなかった。社長がこれほどまでに感情を露わにするのは、初めてのことだった。