木村靖子への約束は、マンションとお金だけの問題ではなかった。
そして、木村靖子がここまで我慢し、良い子でいるのは、お金のためだけではない。
その時、ウェイターがお茶を運んできた。張り詰めていた空気が、少しだけ和らぐ。
ウェイターが去ると、九条結衣は自分のカップにお茶を注ぎ、一口飲んだ。
「九条社長、楽な暮らしが長すぎると、大事なことを忘れちゃうものね」
九条結衣は攻撃的な態度を和らげたが、その言葉は九条政に警戒心を抱かせた。
カップを置き、ゆっくりと彼を見上げて言った。「私が何を得意としているか、思い出させてあげましょうか?」
白い指先でカップを弄ぶ仕草は、藤堂澄人がこれまで見たことのない、余裕と自信に満ち溢れていた。その場の空気を支配するようなオーラは、彼女に逆らう者を全て踏み潰すかのようだった。
藤堂澄人は複雑な表情で九条結衣を見ていた。彼女が只者ではないこと、そして、巧みな演技で誰もを騙せることは知っていた。しかし、今の彼女の迫力に、圧倒されずにはいられなかった。
九条結衣の言葉に、九条政はハッとした。彼女の言わんとしていることが、すぐに理解できた。
まるで九条結衣に冷水を浴びせられたかのように、九条政は震え上がった。
九条結衣はカップを静かにテーブルに置き、嘲笑うような笑みを浮かべた。
「よく聞きなさい。私のものは、犬に食わせるにしても、他人に譲る気はない」
「他人」とは誰のことか、その場にいた全員が理解した。
九条政と木村靖子の顔色が、みるみるうちに悪くなった。
九条政が九条グループの株を渡そうとしていることを見抜き、九条結衣はそれをはっきりと言い放ったのだ。
「できるものならやってみろ!」
九条結衣の冷静さと余裕に比べ、九条政は自分の立場にそぐわない取り乱した様子を見せていた。
彼は、九条結衣にはそれができる力があることを知っていた。
8年前、九条グループが倒産の危機に瀕し、誰もが再起不能だと諦めて買収に動く中、当時18歳だった九条結衣は、海外から帰国したばかりだった。
彼女はたった一人で九条グループの経営を引き継ぎ、わずか1ヶ月足らずで危機を脱した。
そして今、A市4大企業の一つに数えられるまでになった。
世間では、九条政の手腕によるものだと思われているが、九条家の人間だけが、九条結衣の功績を知っている。
だからこそ、九条結衣は自信満々に言い放つことができたのだ。
「やってみればいい」
「結衣、お前…!」
九条政は怒りで震えていたが、九条結衣は全く動じない。余裕の表情で、彼の勢いを完全に押さえ込んでいた。
九条結衣が気にしないからといって、相手に付け入る隙を与えたわけではない。
親切をいいことにするにも、相手を選ぶべきだ。
彼女はゆっくりと席を立ち、さりげなく服を整えると、九条政と木村靖子に視線を走らせた。
「身の程知らずなことを考える暇があったら、どうやって私を喜ばせるかを考えた方がいいわ。九条社長の老後は、私が面倒を見ることになるんだから。まさか、他人があなたを養ってくれると思っているの?」
そう言って、九条結衣は勝ち誇った笑みを浮かべ、軽蔑の視線を向けた。