病院に入るとすぐ、遠くから九条結衣が、別の白衣を着た男性医師と肩を並べて歩いてくるのが見えた。二人は楽しそうに話しており、彼に見せるような冷たさは微塵もなかった。
数日ぶりに会う彼女は、見る影もないほど落ち込んでいる彼をよそに、ずいぶんと楽しそうじゃないか。藤堂澄人の心に、じわじわと嫉妬のような感情が湧き上がってくる。
医師として凛とした姿の中に、隠しきれない優しさがあった。しかし、その優しさは、自分ではなく、他の男に向けられている。
藤堂澄人は、妻の浮気を目撃した夫のように、二人の様子をじっと見つめていた。
「九条先生、8号室の患者さんが、どこからかメスを持ち出して、リストカットしたそうです!」
若い研修医が慌てて駆け寄り、二人の会話を遮った。
研修医とは対照的に、九条結衣は落ち着き払っていた。まるで、リストカットをした患者のことなど、気にしていないかのように。
「メスは?」
「…」
研修医は、九条結衣の言葉に呆然とした。
今は患者さんの心配をするべきなのでは?なぜ、メスの場所を聞くのだろうか?
「ご家族に取り上げられました」
「ええ、わかったわ。後で行く」
「九条先生…」
患者が自殺未遂をしたのに、なぜ後回しにするのだろう。
研修医には、九条結衣の行動が理解できなかった。なぜ、焦っていないのだろう?
九条結衣は、研修医の戸惑いを見抜くと、軽く笑って彼の肩を叩いた。
「大丈夫よ、リストカットくらいで死ぬわけないでしょう。少し痛い目に遭えば、懲りるわ。私は渡辺先生と話があるの。終わったら行くわ」
九条結衣の落ち着き払った様子に、研修医は目を丸くした。そんなこと、ありえるのか?
そう思ったのは研修医だけではなかった。藤堂澄人も、九条結衣が自殺未遂の患者を前にして、これほど冷静でいられるとは予想していなかったのだ。
渡辺という男と話をする方が、患者の命よりも大事なのか?
そういえば、先日、電話で話していた男は、両親に会わせたいと言っていた。あれが、その男なのか?
九条結衣の子供の父親なのか?