086.一日何も食べていない

続いて、目の前の数枚の書類を藤堂澄人の前に差し出し、他の患者の家族と同じような口調で話し始めた。

「これらには藤堂瞳の心臓移植手術後に必ず注意すべき事項が書かれています。一切の疎かは許されません」

藤堂澄人は、その数枚の書類に目を走らせ、雫と頷いたが、その視線は九条結衣がこめかみを揉んでいる手に注がれ、瞳は深く沈んでいた。

九条結衣は藤堂澄人の視線に気付かず、続けて言った。「それに、手術後は明らかな拒絶反応が出ます。この期間は非常に重要で、ご家族の方々は決して油断なさらないように…」

そして、彼女は藤堂瞳の手術後に起こりうる拒絶反応や合併症などについて、詳しく藤堂澄人に説明した。最後に、彼女は正式に無言の藤堂澄人の顔を見つめ、「全て覚えましたか?」と尋ねた。

藤堂澄人は相変わらず軽く頷くだけで、九条結衣は思わず彼をもう一度見つめた。さっきの説明の時、この男は少し上の空だったような気がした。

こんなに真剣に話を聞いていないのに、なぜわざわざ家族になろうとするのか。もしこの話を植田涼にしていたら、きっと一言も聞き逃さなかっただろうに。

九条結衣はそう考えながら、別の書類を取り出して藤堂澄人に渡した。「理解できたなら、ここにサインをお願いします」

心の中では、後で具体的な状況を植田涼に説明しなければならないと思っていた。藤堂澄人は彼女の話を聞くのが嫌いなようで、きっとほとんど耳に入っていないだろう。

藤堂澄人は目を伏せ、目の前の書類の上に置かれた手を見つめた。九条結衣の指は長く細く、爪は清潔に切られ、丸みを帯びた指先が覗いていた。爪は薄いピンク色で、ネイルアートは施されていなかったが、それでも美しく見えた。

これは手術をする手だ。そして、妹の命は二度もこの手によって救われたのだ。

「サインを!」

九条結衣は藤堂澄人がまた不思議そうに呆然としているのを見て、心中少し不機嫌になった。疲れと空腹も重なり、藤堂澄人とここで時間を浪費する忍耐力は全くなかった。机を指で叩き、声も大きくなった。

藤堂澄人は眉をひそめ、九条結衣が差し出したペンを受け取り、流れるような筆跡で自分の名前を書き込んだ。

「はい、私はもう退勤です。お二人はご自由にどうぞ」