九条結衣は思わず笑みを浮かべた。藤堂澄人がこんな不満げな目で彼女を見つめるのは初めてだった。これまでの彼女の印象にある、鉄の意志を持ち冷酷で寡黙な藤堂家当主とは全く異なる姿だった。
「藤堂社長も私に他の男がいると言いましたよね。だから当然、あなたはもういりません。私は藤堂社長のように二股をかけるような器用な真似はできませんから」
そう言って、藤堂澄人の手から自分の手を振り払った。この手が木村靖子の手を握っていたことを思うと、吐き気を催した。
「奥様」
車の中で夫婦を待っていた運転手は、九条結衣が出てくるのを見ると、すぐに車から降りて丁重に頭を下げ、後部座席のドアを開けた。しかし、九条結衣には乗車する様子が見られなかった。
「私はあなたたちの奥様ではありません。藤堂社長も元妻をそう呼ばれるのは好まないでしょう」
そう言い残すと、彼女はタクシー乗り場へと向かった。藤堂澄人は彼女の後から出てきたため、彼女が運転手にそう断固として言った言葉を聞いていた。胸が沈み、怒りが一気に込み上げてきた。
自分がまったく理解できないと感じた。藤堂澄人の周りにはどんな女性もいたのに、なぜ九条結衣の前でこうして面子を潰されなければならないのか。
険しい表情で車に向かうと、運転手は彼の様子を見て慌ててドアを開け、自身も急いで運転席に飛び乗りシートベルトを締めた。後ろを振り向いて恐る恐る尋ねた。「社長、そのまま御自宅へお戻りですか?」
「ああ」
シートに深く身を沈めながら低く応えた。この奇妙な喪失感がどこから来ているのか深く考えたくなかったが、九条結衣の冷ややかな表情を思い出すたびに、胸の中の不可解な感覚は一層深まっていった。
「社長、奥様をお迎えしましょうか?」
運転手はタクシー乗り場で待っている九条結衣を見ながら、躊躇いがちに尋ねた。
藤堂澄人の視線は九条結衣の方へ向けられた。彼女が平然と道端に立ち、彼の方を一瞥もせず、助けを求める様子もないのを見た。
表情を曇らせて言った。「必要ない!」
「かしこまりました」
社長は本当に怒っているようだった。部外者の自分でさえ社長が可哀想に思えた。不倫をしておきながら、そんなに堂々と社長に態度を取るなんて、どんな男でも我慢できないだろう。