264.引き抜きまで私のところに来た

「奥様は社長にお似合いです。私はあなたを見た瞬間、社長夫人の資格があるのはあなただけだと思いましたので、つい習慣的にそう呼ばせていただいております」

九条結衣は松本裕司のにこやかな様子を見つめながら、彼を知らない人は誰も気付かないだろうと思った。この人は親しみやすそうに見えて、実は藤堂澄人と同じく、手ごわい古狐なのだ。

そんな古狐が笑みを浮かべながら自分を「奥様」と呼ぶのを聞いて、九条結衣は背筋が寒くなった。

「松本秘書の仕事能力が優れているのは知っていましたが、お世辞も人一倍上手いんですね。私のことをそんなに高く評価してくださるなら、上司を変えて、私の下で働いてみませんか?」

九条結衣が眉を上げて松本裕司を見つめながら言い終わった時、ちょうど隣の病室のドアが開き、藤堂澄人が不機嫌そうな表情で松本裕司を見た。

自分の上司にそんな目で見られ、松本裕司は背筋が凍る思いがした。社長夫人に罠にはめられたような気がしてきた。

即座に、松本裕司は藤堂澄人の前で忠誠を誓った。「奥様のお言葉、光栄でございます。しかし、社長には大変お世話になっておりまして、私の人生は社長お一人にお捧げする所存でございます」

九条結衣:「……」

このお世辞は、さすがに褒められたものではない。

藤堂澄人は松本裕司を一瞥した後、九条結衣の呆れた表情を見て、冷笑しながら言った。「九条社長の会社は人材不足なのかな?わざわざ私の所まで引き抜きに来るとは」

九条結衣は藤堂澄人を見つめ、彼が先ほど祖父の病室から出てきたことを思い出し、内心驚きを覚えたが、表情には出さなかった。二人を見て笑いながら言った。「あなたたち、本当に主従の情が深いのね」

そう言って、病室のドアを開けて中に入った。

松本裕司は藤堂澄人を見て、それから閉まった病室のドアを見つめ、藤堂澄人の側に寄って小声で言った。「社長、奥様は私たちのことを何か誤解されているようです」

その言葉に、藤堂澄人から冷たく軽蔑的な視線が投げかけられた。「随分と都合のいい考えだな」

松本裕司:「!!!」

自分は何か間違ったことを言っただろうか!

「社長、お爺様への見舞いも済みましたが、これからお戻りになりますか?」

ドアの外に立ったまま一歩も動かない藤堂澄人は、松本裕司の言葉を聞いて少し考え込んでから言った。「お前は先に帰れ」