幸いこのホテルの設備は充実しており、救急箱にも様々な応急処置の物が揃っていた。九条結衣は必要な物を取り出すと、藤堂澄人の前に足早に歩み寄り、包帯を巻き始めた。
「手を離して」
彼女は低い声で言った。藤堂澄人は素直に手を離した。目の前の傷口から流れる真っ赤な血を見た瞬間、九条結衣の目が痛みを感じ、思わず息を飲んだ。
額に大きな裂傷があり、包帯だけでは足りない。「縫合が必要です」
九条結衣は彼を見つめながら、自分でも気付かないほど震える声で言った。
「わかった」
藤堂澄人はためらいもなく答えた。漆黒の瞳は深い淵のように、九条結衣を吸い込みそうで、まるで魔力を持つかのように、彼女の心を瞬時に落ち着かせた。
「お願いするよ。たかが数針だ。九条先生なら問題ないだろう?」
藤堂澄人は彼女に向かって、口角を上げた。
九条結衣は答えず、再び救急箱から医療用の縫合糸を取り出し、傷口を丁寧に消毒してから、藤堂澄人に言った。「麻酔がないので、我慢してください」
「ああ」
手術台での慣れた縫合の動作が、今の九条結衣には卒業したての研修医の時よりも、さらに下手くそに感じられた。
針先が皮膚に触れた瞬間、彼女の手は震え続けていた。
「結衣?」
九条結衣が針を刺せないでいるのを見て、藤堂澄人は彼女を見つめ、その緊張した表情に気付くと、低く笑いながら呼びかけた。
九条結衣はゆっくりと彼を見つめ、唇を噛んで尋ねた。「怖くないんですか?」
藤堂澄人の笑顔が一瞬凍りついた後、また軽く笑い出した。「君が怖いのか?」
まだ血の付いた手で、彼女の針を持つ手を握り、さらに低い声で続けた。「人を死の淵から救い出す外科医が、こんな縫合ごときを怖がるはずがない」
彼の鋭い刃物のような視線が、九条結衣の目の奥まで突き刺さった。心臓は、彼のべたつく手のひらが彼女の手に触れているように、何かが心に張り付いているかのようだった。
「結衣、君は僕のことを心配している」
藤堂澄人は目の中の笑みを消し、深く鋭い眼差しで九条結衣の顔を見つめながら言った。
それは質問ではなく、事実を断言する口調だった。
九条結衣は彼の言葉に驚き、手の中の針が大きく震えた。確信に満ちた黒い瞳と目が合うと、なぜか恥ずかしさと怒りが込み上げてきた。
「怖くないなら、遠慮なくさせていただきます」