「聞こえたなら聞こえたでしょう」伊藤佳代が話そうとした時、橋本絵里子が無表情で黙ったまま部屋に戻っていくのが見えた。
橋本絵里子のその表情を見て、伊藤佳代は長女が怒っているのを悟った。「絵里子...」
橋本絵里子と伊藤佳代が去った後、橋本奈奈は橋本東祐に向かって変顔をした。「お父さん、さっきお姉ちゃんの成績のことを言ったから、お姉ちゃん怒ったんだよ」
だから母は橋本絵里子を慰めに行ったのだ。
「お前の姉さんはね」橋本東祐はため息をつきながら首を振った。「分かってきたよ。姉さんは分別はあるけど、お母さんに甘やかされて性格が悪くなってしまった」
奈奈が帰ってきたばかりの時、長女は飛んでいって奈奈の試験の出来を尋ねた。
次女が悪い点を取ったと言った時の長女の上がった口角を思い出すと、橋本東祐は気分が悪くなった。
長女はなぜ奈奈の試験の結果が悪いことを望んでいるのか。もしかして長女も田中さんと同じように、奈奈に勉強を続けさせたくないのだろうか。
「奈奈、最近絵里子とは仲良くやってる?」
橋本奈奈は唇を噛んだ。橋本絵里子との関係は良くなかったと答えられただろう。ただ一方的に橋本絵里子に騙されて、自分だけが橋本絵里子に優しくしていたのではないか。
「いつも通りです」橋本奈奈は中立的かつ現実的な答えを返したが、残念ながらこの言葉を橋本東祐は理解できなかった。
「奈奈、お姉ちゃんは...お前の方が分別があるから、特に譲る必要はないけど、姉さんが頑固になった時は、怒らないで心に留めないでおくれ」
橋本東祐は伊藤佳代よりもずっと公平に物事を扱った。姉が妹に譲るのは当然だが、橋本奈奈に橋本絵里子に譲れとは言えなかった。
姉妹は年が近いから、口喧嘩をするのは当然だ。
しかし皆家族なのだから、橋本東祐の唯一の要求は、喧嘩はしてもいいが、いつまでも心に留めておかないこと。喧嘩が終わったら仲直りして、恨みを持ち続けないことだった。
「はい」橋本東祐の要求は無理のないものだったので、橋本奈奈は頷いて承諾した。
「よし、部屋に戻って復習しなさい。今回の試験は成績が下がったんだから、頑張らないと」
「はい」
始業試験はヒヤヒヤしたものの、なんとか橋本奈奈は乗り切った。その後は、普通の生徒として真面目に通学し、自分で勉強量を増やしていった。
橋本奈奈が自分で勉強量を増やしただけでなく、田中先生と木下先生も追加の課題を出すようになった。
橋本奈奈が本当の十五歳の子供でなくて良かった。そうでなければ、毎日この増えた課題に、どの子供も耐えられないだろう。
先生たちがこうするのは自分のためだと分かっていても、理解することと受け入れることは別問題だ。
二人の先生も、自分たちが増やした課題量が橋本奈奈の反発を招かないか心配していた。
しかし毎回橋本奈奈が追加の課題を完璧にこなし、しかも非常に真面目な態度で、少しも適当に済ませることなく仕上げてくるのを見て、二人の先生は喜びを感じ、さらに熱心に橋本奈奈に個別指導をするようになった。
始業から二週目の月曜日の放課後、この日は橋本奈奈が日直当番だったので、いつもより帰りが遅くなった。
他の数人の生徒が教室の掃除を終えると、橋本奈奈は彼らを帰らせた。
橋本奈奈は教室を点検し、窓が全て施錠されているのを確認してから、教室のドアを閉め、カバンを背負って橋本家に向かった。
一週間で一冊の本をほぼ終えたので、斎藤家に行って新しい本と交換して復習しようと思い、大通りを通らずに斎藤家の裏門への近道を選んだ。
「ぶっ殺してやる!」
「これで二度と俺たちに生意気な真似はできないだろう」
「このクソ野郎、立ち上がってもう一回言ってみろよ」
路地に入ったとたん、喧嘩の声と「バン、バン」という殴り合いの音が聞こえてきた。
橋本奈奈は大きく驚いて、この騒動に巻き込まれないよう、すぐに立ち去ろうとした。
殴られていた白洲隆は朦朧とした意識の中で、誰かが近づいてくる足音を聞いた。その音はとても小さく、ほとんど聞こえないほどだったが、この時の彼にはとても鮮明に聞こえた。
痛みで既に感覚が麻痺しかけている体で、白洲隆は誰かが現れて自分を助けてくれることを願った。しかし、かすかに聞こえていた足音はすぐに遠ざかっていった。
ずっと我慢していた白洲隆は失望して目を閉じ、この最後の息を吐き出そうとした。もう頑張る必要はない、どうせこの世界に自分を気にかけてくれる人なんていないのだから。
「急いで、こっちです」しばらくすると、先ほど遠ざかった足音が再び聞こえ、今度は二人分の足音が加わっていた。
足音は急いでいて慌ただしかった。
「何をしているんだ、やめろ」
「まずい、人が来た」
「くそ、銃を持ってる!」
「逃げろ!」
白洲隆を殴っていた集団は、お嬢ちゃんが二人の警備員を連れて走ってくるのを見て、顔色を変え、白洲隆を置き去りにして逃げ出した。
彼らが持っているのは拳だけだが、走ってきた二人は銃を持っている。一発の弾丸で命を落とすことになるのだ。
「これは白洲家の子供じゃないか?まずい、怪我が重い。すぐに病院に連れて行かないと」
「分かった。君が病院に連れて行ってくれ。私は戻って報告してくる。誰も見ていないわけにはいかないからな」
これが白洲隆が意識を失う前に最後に聞いた会話だった。
白洲隆の安全を確認した後、橋本奈奈は今はまだ平らな胸をぽんぽんと叩き、ほっと息をついた。
今時の子供たちの喧嘩はこんなに激しいのか。あの血まみれの顔では、殴られていた人が一体どんな顔をしているのか見分けがつかなかった。
白洲隆、この名前にどこか聞き覚えがある気がする。
前後でかなりの時間を取られてしまったので、橋本奈奈は最速で本を交換し、直接橋本家に駆け戻った。
「奈奈、今日は少し遅かったね」橋本東祐は次女が帰ってくるのを見て、心配そうに尋ねた。
「はい、今日は日直当番で、最後に帰ったんです。これからも月曜日は少し遅くなると思います」
橋本絵里子はもう学校が始まっていて、高校生の橋本絵里子は橋本奈奈と違って通学ではなく寮生活で、週に一度しか帰って来ない。
だから今は家には橋本奈奈一人しか子供がいない。
「もう中学三年生なんだから、クラスの係を決めたでしょう。今回は何になったの?」伊藤佳代は顔を冷たくし、目に皮肉な色を浮かべた。
次女は性格が人に好かれにくく、口も重い。家にいる二十四時間でも二十四言葉も話さない。まるで無口な瓢箪のようで、こんな人間は社会に出ても上手くやっていけないだろう。長女のように口が達者で、どこに行っても好かれるのとは大違いだ。
「絵里子が学校で文化委員になったって聞いたわよ」
橋本奈奈は笑った。「お母さん、高校の授業は私の中学より大変なのに、お姉ちゃんがクラスの係なんてやってるの?」これじゃ勉強はどうするの?
橋本東祐は一瞬戸惑った。元々娘がクラスの係になる機会があるのは良いことだと思っていたが、学業成績のことを考えると、橋本東祐も迷ってしまった。「奈奈、機会があれば経験を積むのも良いことだけど、クラスの係になれなくても構わない。勉強の方が大事だからね」
橋本東祐は励ましを主として、誠実に話した。
「何が良いのよ。なれないものはなれないのよ」
「誰が係になれないって言ったの?」