第285章 失望させてしまったの?(5)

その一言は簡潔でしたが、数十文字もありました。しかし、彼はその中の三文字「鈴木和香」だけに注目していました。

その時の彼は、もう長い間彼女に会っていませんでした。彼の周りの人々は誰も彼女を知りませんでした。だからこそ、この三文字は彼の脳裏に何度も浮かんでは消えていきました。他人の口から、彼の心に刻まれたその名前を突然聞いた時、彼はその場に立ち尽くしてしまいました。しばらくして、やっと頭が働き始めましたが、ただ「鈴木和香と夫婦を演じる」ということだけを繰り返し考えていました。

椎名一聡と赤嶺絹代が自分を嫌っているのを知っていながら、彼は長い沈黙の後、同意しました。

何の要求も条件もなく、ただ同意したのです。

他でもない、ただ「鈴木和香」という三文字のためだけに。

どんなに辛く嫌われても、それは価値があることでした。

なぜなら誰も知らなかったのです。その時の彼の心がどれほど高鳴っていたかを。それは天からの恩寵だと感じました。彼女の側に再び現れる理由を与えてくれたのですから。

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「佳樹!」鈴木夏美は最初に来栖季雄を見つけ、手を振って笑顔で呼びかけました。

来栖季雄に背を向けていた鈴木和香はすぐに振り返り、彼が近づいてきた時、温かく甘い笑顔で「佳樹兄」と呼びました。

佳樹兄...少女の声は柔らかく優しく、この三文字が彼女の唇から漏れる時、何か切なさを帯びていました。

彼女が普段、よそよそしく丁寧に「来栖社長」と呼ぶのとは違って、最近の二回、彼の名前を直接呼んだことは、彼に特別な満足感を与えていました。

来栖季雄は心の中の切なさを押し殺しながら、鈴木和香を見つめる表情に温もりを込めて、自然に彼女の柔らかな腰に手を回しました。

来栖季雄は椎名佳樹の姿に扮していましたが、彼の体の香りは変わっていませんでした。鈴木和香は彼に腰を抱かれた時、彼から漂う淡い香りを感じ、心臓の鼓動が突然速くなり、眉目に恥じらいの色が浮かびました。

二人の仕草は、新婚夫婦の甘い愛情を存分に表現していました。

容姿は変装できても、声は変えられません。そのため来栖季雄は椎名佳樹とよく知っている人に対しては、できるだけ話さないようにしていました。

時が経つにつれて、みんなは椎名佳樹が事故で顔を損傷したことで性格が変わり、口数が少なくなったのだと思うようになりました。