彼女は階段を上がってきたが、ロビーに直接向かわず、まず女子トイレに入り、洗面台の前に立って蛇口をひねり、顔を洗って落ち着きを取り戻そうとした。
鈴木和香がロビーに着くと、ロビーに背を向けて入り口に立っている来栖季雄の姿が目に入った。冬の季節だというのに、彼は薄手のシャツ一枚だけを着ていたが、寒さを感じていないかのように優雅な立ち姿を保っていた。
鈴木和香は自分の服の襟をぎゅっと掴み、深く息を吸って声を出した。「季雄さん。」
来栖季雄は彼女の声を聞くと素早く振り向いた。これほどの出来事が起きたにもかかわらず、彼は少しも緊張や動揺を見せず、むしろ眉目が晴れやかで、漆黒の深い瞳には喜びの光さえ宿っているようだった。彼の声は軽やかだった。「随分と時間がかかったね?」
彼は女性の部屋で現場を押さえられたというのに、何事もなかったかのように振る舞えるのだろうか?それとも彼女に見られても構わないと思っているのか?彼にとってはどうでもいいことなのか?
来栖季雄のこの上機嫌な態度に、鈴木和香の心はさらに不安になった。
彼女の手が来栖季雄に握られるまで、彼女はぼんやりとしていた。来栖季雄の横顔を見つめると、いつもの凛とした表情に活気が満ちているのがはっきりと分かった。
鈴木和香は来栖季雄の心の内がますます読めなくなり、心臓が落ち着かない様子だった。
桜花苑に戻る道中、二人はほとんど会話を交わさなかった。鈴木和香は時々こっそりと運転する来栖季雄を見やっていたが、回数が重なるうちに来栖季雄に気づかれてしまう。男性は気づいていないふりをして前方の道路だけを見つめていた。フォーシーズンホテルで彼女がルーシーに言った言葉を思い出すと、つい口元が緩んでしまう。そして、バックミラーを通して鈴木和香が彼の笑みに気づいた時、彼女の目が暗くなり、かわいそうそうにバッグを握りしめ、不安げな様子を見せるのが映った。それを見た来栖季雄の気分は一層良くなった。
説明したくないわけではない。ただ、彼女のこの不安そうな様子をもう少し見ていたかったのだ。
なんというか...心が温かく、甘く、深く愛されているような感覚があった。