翌日。
鈴木知得留はゆっくり起き上がり、清楚なワンピースに着替え、薄化粧を施した。
根岸佐伯と根岸史子はリビングで、今日の彼女の誕生日パーティーについて話し合っていた。知得留の姿を見ると、佐伯は嬉しそうに、「お姉さん、午後のパーティーの打ち合わせ、一緒に参加してくれるよね?」と声をかけた。
以前の知得留なら断らなかっただろう。それどころか、佐伯のために完璧なパーティーにしようと力を尽くしたはずだ。
だが、今の彼女にそんな親切心はない。
知得留から返事がないので、佐伯はさらに言った。「そうだ、今日は田村厚さんを招待したの。やっとOKしてくれたんだ。お姉さんも嬉しいでしょ?」
「ええ」知得留は相槌を打ち、薄笑いするんだ。
嬉しいには違いない。もしかしたら……面白いことになるかもしれないから。
知得留は続けた。「少し用事があって、先に出かけるわ。パーティーの準備は手伝えないけど、時間には必ず戻るから」
「わかった。じゃあ、お姉さんの邪魔はしないわ」佐伯はいつも、殊更に気遣いを見せるのだった。
知得留はくるりと踵を返し、家を出た。
根岸家の人間とは、もう顔も見たくない。
佐伯は知得留の後ろ姿を見送りながら、何か考え込むように言った。「お母さん、鈴木知得留って、なんか変わったと思わない?」
「変わった?」根岸史子は佐伯の視線の先、知得留の背中を見ながら、大して気にした風もなく言った。「あの子が小さい時からずっと見てきたんだよ。手玉に取るなんて簡単なのよ。ちょっと眉をひそめただけで、何を考えてるかなんてすぐに分かる。どうせ、私の手のひらの上で転がされてるだけどね」
母親の言葉に、佐伯は自分の考えすぎかと思った。確かに、母親にかかれば、鈴木知得留など物の数ではない。
その頃、加藤の運転する車に乗っていた鈴木知得留は、あの毒母娘が何を話しているかなど知る由もなかった。だが、彼女たちの本性は嫌というほど分かっている。
知得留は携帯電話を取り出し、番号を押した。すぐに相手が出た。「お父さん」
「知得留、何か用かね?」
「お父さん、今日はお仕事忙しい?」
「どうしたんだ?」
「今から冬木家に行きたいの。お父さんと一緒に行きたい」
「また急だな」鈴木山は眉をひそめ、少し考えてから言った。「わかった、少し待っててくれ。仕事を調整して、すぐに向かう」
「先に行って、冬木家で待ってる」
「余計なことは言うんじゃないぞ」鈴木山は念を押した。
「わかってるわ」
鈴木知得留は電話を切り、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めた。
彼女にとって、婚約破棄はもう何百年も前のことのようだ。当時の状況はほとんど覚えていない。ただ、ひどく興奮して、強い決意を抱いていたことだけは覚えている。相手に反論の余地など与えず、恐ろしいほどきっぱりと関係を断ち切った。
そして今、覚悟を決めるしかなかった。
車は冬木家の正門前に停まった。
冬木家は東京でも有数の名家であり、その邸宅は息を呑むほど立派だった。鈴木家とは全く違う。鈴木家は商業と政治の世界で生きてきたため、控えめな佇まいの日本家屋だった。もちろん、みすぼらしいわけではない。
知得留は車を降り、深呼吸をしてから、インターホンを押した。
門が開き、知得留は一人で中に入った。
玄関ホールでは、使用人が迎えてくれた。「鈴木様、こんにちは」
「冬木家の若旦那にお会いしたいの」
「若旦那はリビングにいらっしゃいます」使用人はすぐにそう言った。
冬木空は帰国したばかりで、まだ冬木グループには出社しておらず、いわば失業中の身だった。
知得留はソファに座っている冬木空の前に立った。
冬木空、24歳。海外の名門大学でダブルディグリーを取得して帰国した、冬木グループの正当な相続人。驚くほどの財力を持ち、その将来は計り知れない。
その容姿は……
知得留は、前世の自分は頭がおかしかったのではないかと本気で疑った。こんなにも美しい男性を捨てて、あの田村厚というクズ男のどこに惹かれていたのだろう?
冬木空の顔立ちをよく見てみよう。力強く整った眉、切れ長の目、長く上向きのまつげ。星のように輝く瞳。高く通った鼻筋、完璧な形の唇。唇の色は薄いが、なぜか妙に色気がある。特に、今、わずかに弧を描いているのが、たまらなく蠱惑的だ。
知得留は軽く唇を舐めた。こんなに真剣に冬木空を見つめたことはなかった。記憶の中では、ただ、まあまあ整った顔立ちをしている、という程度の認識だった。まさか、これほど美しいとは。
「鈴木さんは、今日はまた、一体何のご用でしょうか?」冬木空は冷ややかに口を開いた。その声は、不思議なほど耳に心地よかった。
知得留ははっと我に返った。
気持ちを落ち着かせ、言った。「昨日の、婚約破棄の件でお話ししたいの」
「鈴木さんは、はっきりと仰ったはずです。鈴木さんには心に決めた方がいる、と。私はお二人の仲を引き裂くべきではありませんし、無理強いしたところで意味がありません。それに、私は見た目ばかりで役に立たない。そんな身勝手な理由で、あなたの下半身の幸福を奪うわけにはいきません。以上、肝に銘じておりますので、鈴木さんは、くれぐれも繰り返す必要はありません」冬木空の言葉は、丁寧な口調とは裏腹に、ひどく冷たく、突き放すような響きがあった。
知得留は奥歯を噛み締めた。この男、根に持っている。だが、努めて穏やかに微笑んだ。「いいえ、昨日は私がどうかしてたの」
冬木空は眉を上げた。
「心に決めた人なんていない。好きな人がいるとすれば、それは、昔から許嫁だったあなただけ。役に立たない、なんていうのは、ただの噂でしょ。信じられないわ!」最後の言葉を、知得留は特に強く言い放ち、にっこりと笑ってみせた。
冬木は眉を寄せ、不機嫌そうな顔をした。口調には、嘲りの色が濃く滲む。「鈴木さんは、突然どうされたんです?昨日は大勢の前で婚約を破棄し、今日は押しかけて愛の告白とは。頭を挟まれたのか?」
「ええ」知得留は覚悟を決めて認めた。「昨日、手術を受けたばかりなの。今はもう、頭は正常よ」
「鈴木さんは、ずいぶんとユーモアがおありのようだ」冬木は冷たく言い放った。「だが、私は付き合っている暇はない」
そう言うと、冬木空は立ち上がり、その場を去ろうとした。
冬木空の後ろ姿を見ながら、知得留は、誰だって自分が正気ではないと思うだろう、と覚悟した。
「冬木空!」知得留は声を張り上げた。「めちゃくちゃにしておいて、責任を取らずに逃げるつもり?」
その声は、屋敷中に響き渡った。
冬木空の体は硬直した。口元が引き攣り、一言一言、絞り出すように言った。「私は、鈴木さんの髪の毛一本たりとも触れていませんが?」
「そんなことはどうでもいいの。重要なのは、私があなたに触れたこと。だから、責任をきちんと取るのよ」
冬木の顔色は悪かった。今頃、知得留を完全に狂人扱いしているだろう。
張り詰めた空気の漂うリビングに、突然、厳しい声が響いた。「一体、どうしたんだ?!」
知得留が顔を上げると、冬木空の父親である冬木雲雷(ふゆき うんらい)と、その隣に立つ上品な婦人、加藤清(かとう さや)が、階段をゆっくりと降りてくるところだった。二人の顔は、明らかに不機嫌そうだった。
当然のことだ。上流社会において、婚約破棄は非常に面目を失う行為なのだから。
「また、何の用だ?」雲雷が問う。
「冬木おじさま、昨日は失礼いたしました。婚約を破棄するつもりはなかったんです」知得留は弁解した。
「我が冬木家を、お前が好き勝手にしていい場所だとでも思っているのか?!」雲雷は言った。「鈴木家は、お前のような礼儀知らずの娘を育てたのか!」