根岸史子の虚偽

鈴木知得留の部屋にで。

「まあ、知得留……」根岸史子はいつもの穏やかな口調で、ゆっくりと語りかける。「今日、佐伯から聞いたんだけど、田村さんと別れたんですって?」

「別れたって言うか、最初からちゃんと付き合ってたわけじゃないし」

「でも、田村さんのことが好きだって言ってたじゃない。もしかして、彼に何かされたの?私、知得留が酷い目に遭うなんて、絶対に許せないわ!」根岸史子は、まるで怒りに打ち震えているかのように言う。

「ううん、ただ、急に目が覚めただけ」

「目が覚めた?」根岸史子は眉をひそめる。

「私と田村さんじゃ、住む世界が違いすぎる。一緒にいても幸せになれないって、分かっちゃったの。それなら、家柄が釣り合う冬木空と結婚した方がいいかなって」​鈴木知得留は正論的な口調で言った。

「でも、前は身分なんて関係ない、彼の人柄が好きだって言ってたじゃない。あの時は、私も知得留と田村さんのことで、お父さんと危うく喧嘩になりかけたのよ。やっとお父さんが認めてくれたのに、どうして急にそんなこと言い出すの?それに、冬木さんの体調が良くないのは知ってるでしょう。そんな人と結婚したら、苦労するのはあなたなのよ」根岸史子は心から心配するように言い、そして何かを察したように言葉を続けた。「もしかして、またお父さんに何か言われたんじゃない?安心して。私はいつでも知得留の味方だから。娘の人生が台無しになるなんて、黙って見てられないわ」

「別に。心配しすぎだよ。ただ、ちょっと考えが変わっただけ」鈴木知得留は少しイラつきながら言った。「だから、私の恋愛に口出ししないでほしいな」

根岸史子は、鈴木知得留がここまでハッキリと拒絶するとは思っていなかった。以前なら、少し優しくすれば何でも話してくれたし、言うことも聞いてくれたのに。

急に距離を置かれ、拒絶されているのを感じ、根岸史子は疑念を抱いた。

しかし、根岸史子は冷静さを保てる女だ。ここで焦ってはいけない。鈴木知得留に対しては、油断は禁物だ。そう悟った彼女は、すぐに態度を切り替えた。「あなたが傷つくのが心配なだけなの。でも、あなたが自分で決めたことなら、何も言わない。もし何かあったら、いつでも頼ってね。力になるから」

「ありがとうございます」鈴木知得留は微笑んだ。

その笑顔は甘く、そして隙がない。

根岸史子は、さらに心にもない言葉をいくつか並べた後、立ち上がって部屋を出て行った。

鈴木知得留は、根岸史子の背中を見つめながら、冷たく笑った。

根岸史子が、知得留が簡単に冬木空と結婚することを許すはずがない。きっと何か仕掛けてくる。でも、焦れば焦るほど、墓穴を掘るだけ。ただ、じっと待ち構えていればいい。

部屋を出た根岸史子の顔色は、案の定、一変していた。

鈴木知得留は、以前とは明らかに違う。まるで、手の内が読めない。これほど長い時間と労力をかけて、鈴木家の皆の信頼を得てきたのに。この肝心な時に、鈴木知得留に邪魔されるわけにはいかない!

自室に戻ると、根岸佐伯は既に誕生日パーティーに戻っていた。根岸史子は一人、しばらく考え込んだ後、電話を手に取った。

「もしもし、お母さん?」

「何度言ったら分かるの。いきなりお母さんって呼ぶのはやめなさい」根岸史子は厳しく言った。

「……分かったよ」田村厚は不満そうに、わざとらしく言った。「根岸おばさん」

根岸史子は田村厚の皮肉を無視して、本題に入った。「鈴木知得留の様子が、以前と少し違うの。どこがどう違うかは気にしないで、とにかく今すぐ彼女の機嫌を取りなさい。もし本当に冬木空と結婚してしまったら、私たちの長年の苦労が水の泡よ!」

「機嫌を取る必要なんてあるのか?あの女なら、俺が指一本動かせばすぐに靡くさ」田村厚は馬鹿にしたように言った。

「いいから真面目にやりなさい!鈴木知得留が騙されやすいかどうかは関係ない。とにかく、彼女を絶対に手懐けるの!長年の苦労を無駄にしたくないのよ!」

「分かったよ」田村厚は面倒くさそうに答えた。

根岸史子は電話を切ったが、抑えきれない苛立ちを感じていた。一体、鈴木知得留の何が間違っていたのか。いつも完璧に事を運んできたはずなのに、彼女を見くびっていたというのか……?

夜になり、根岸佐伯の誕生日パーティーが終わっても、根岸史子はそのことばかり考えていた。夜も更け、鈴木山を寝かしつけた後、根岸史子は彼の隣に横になり、思い切って切り出した。「ねえ、あなた。今日、知得留ちゃんが田村厚と別れたって知ってる?」

「別れた?」鈴木山は驚いた。まさか自分の娘が、こんなにきっぱりと別れを告げるとは思っていなかった。

「ええ。私も不思議なの。あんなに仲が良かったのに、どうして急に別れるなんて言い出したのかしら。もしかして、知得留ちゃん、何か辛い思いをしたのかしら」

「いや、それは違うだろう。知得留は、ただ目が覚めただけだ」鈴木山は満足そうに言った。

「目が覚めたって、どういうこと?」根岸史子は、知らないふりをして尋ねた。

「知得留は、家柄の重要性に気づいたんだ。田村厚と結婚する方が、かえって知得留を不幸にすると」

「でも、恋愛に家柄なんて関係ないじゃない。それに、知得留ちゃんが冬木空と結婚する方が不幸よ。彼の体のことは、誰もが知っていることじゃない!とにかく、私は知得留ちゃんが不幸になるのは許せないわ」根岸史子は不満そうに言った。

「知得留を心配する気持ちは分かる。でも、知得留は私の最初の宝物だ。私が彼女を不幸にするようなことをするはずがないだろう。全て、彼女が自分で決めたことだ」

「でも、あなた。何だかおかしい気がするの。もしかしたら、知得留ちゃんと田村厚の間で何かあって、わざとあんなことを言ってるんじゃないかしら。もし知得留ちゃんが心変わりしたら、冬木家はどう思うかしら。私たち、信用を失ってしまうわ。知得留ちゃんの名誉のためにも、心配だわ」

「心配ない。知得留は分別のある子だ。私に約束したことを破るようなことはしない。知得留が私たちを困らせるようなことをするはずがない」鈴木山は、鈴木知得留を深く信頼していた。

根岸史子は、これ以上言うと、親子の仲を裂こうとしていると思われるだけだと悟った。

彼女は、怒りで体中が熱くなった。

何としても、鈴木知得留を冬木家に嫁がせるわけにはいかない。絶対に!